戸惑いこそが人生か
吸い込む息、さんさん(燦々)と輝く太陽、足元の大地、足に履くスニーカー、体を覆う下着にシャツ、身体があり、言葉がある。
身の回りに感じるすべてのことに常に感謝の心を持ちたいと願いながら、思考はすぐに別のことを考えはじめる。
あたりまえのことをあたりまえに感謝できるようになったら一人前だと分かりながら、日常に埋没する自身の不憫さを憐れみつつ戸惑っている。
はたして、人生において何一つ戸惑いのない人はいるのだうか。
そのように、漫画にでてきた言葉を心に抱きながら、お盆を迎えている。
夜は冷やしうどんにするか、それとも馴染みの店へ飲みにいくか。
そんなことで戸惑っている。
そんなこんなで、今週読む本を紹介する。
『宇宙に終わりはあるのか』
宇宙のはじまりについては何度も書いたが、それでは、宇宙に終わりはいつかくるのであろうか。
理論的に宇宙の終わりを考察することは可能だが、本当のところは終わってみなければ分からない。いや、終わったら分からなくなるので、やはり分からない。
分からないことは考えても仕方ないと人はいうが、分からないことを考えるのが人生の醍醐味とも言える。その戸惑いもまた、人生であろう。
『一射絶命』
年始に弓を引くという目標をたてていたが、未だに実行せずにいる。これもまた、戸惑いである。
一射が完了するまでに執られる動作として、足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残身があり、迷いなく一連の動作が実践されたとき、一射絶命と言われる境地にたどり着けるのでないか。そんな希望を抱いている。
『皮膚感覚と人間のこころ』
メルロポンティが示すように、人間は皮膚を伴って思考する。だから、肌で感じたことは、その人自身に強固な思想や意志を作りだす。
また、肌が合わないと直感する感覚を人間は持ち得ている。
初対面では言うにおよばず、相当の月日を一緒に過ごした人であっても、文字どおり肌が合わなくなることがある(らしい)。昨日まではあんなに相性が良い相手はいないと、肌を合わせれば呼吸も、視線が重なるタイミングも、肌の感覚も、手や口を合わせた感触も、頂きに昇る瞬間も、何もかも一致していたものが、あるときから合わせる肌の感覚に違和感が生じはじめる。
その正体が分からぬまま戸惑っているうちに相手から別れを告げられる。
肌は人が思うよりずっと、何かを感じている。
『キューポラのある街』
1961年に刊行された、早船ちよの小説である。
翌年には映画となり、主演の吉永小百合さんが17歳でブルーリボン賞を受賞するという偉業を成す。
さて、『キューポラのある街』から57年が経過し、私の育った街である川口市はどのように変遷していったのだろうか。高度成長期が終わり、バブルがはじけ、キューポラの姿も街から消えていった。
戸惑いの中でも市の人口は増え続け、さまざまな物語が街に生まれた。
そんな『キューポラのあった街』の物語を私は今、書いている。
『指が月をさすとき、愚者は指を見る 世界の名科白50』
大学教授であった批評家、四方田犬彦氏による、世界の名科白を切り口に時代と文化を語るエッセイ。2004年刊行。
花田清輝が発した科白について語られたページで、文学者好みの文章があったので記載しておく。
「文学とは表現することではない。表現できないものを前にした戸惑いである。」
言葉というものを使う前提において、この戸惑いが一つの境となる。
世界で起きる事象はすべて言葉で表現できると思って言葉を発する人と、表現不可能というところから言葉を発する人とでは言葉への配慮が違ってくる。
人は遠慮がちに話すぐらいがちょうど良い。
『世界のエリートはなぜ、この基本を大事にするのか』
エリートとはもともとラテン語で「選ばれた者」を意味した。そんな鼻持ちならない「エリート」という言葉だが、「エリート」は世界と人間をどう捉えているのだろうか。
そして「エリート」の戸惑いとは何だろうか。そんなことを思いながら本書を手にした。ちなみに歴史はエリートが作るのではなく、エリートでないその他大勢により動き作られる。
『インターネットの次に来るもの』
まだ未読なため本の内容は分からないが、今後一般家庭に登場し人々の生活に関わるものは、VA(仮想現実)とAI(人工知能)である。
そんな世になったとき、人間は何に戸惑い、人間自身はどう変わるのだろうか。
結論を言えば、人間の戸惑いの中身は変わらず、そして、人間もまた変わらないのだろうと思う。だから、安心して良い。
『絵本とは何か』
本を読むとは、戸惑いを探す旅でもある。
絵本とは何かと問いを発したとき、その人間は戸惑いの中にいる。そして戸惑いの先に、自分なりの答えを探す。
だから私は、戸惑う人が好きである。
戸惑うことで人は自分自身に目覚めていく。