優勝してもIWGPには挑戦出来ない・・・意味のなさから「NEW JAPAN CUP」が始まった
2005年1月に新日本プロレスが第1回「NEW JAPAN CUP」の開催を発表した。
当時の渉外部長だった田中秀和氏は「このNEW JAPAN CUP~新日本無差別級トーナメントを、今年から新たな<春のG1>という形で新たな戦いの場を作っていきたいと思っています。G1という形がとても大きくなってしまったので、敢えてG1という名称は使いませんが、春はトーナメント、夏はリーグ戦で、選手一人一人がアピールし、力を競ってもらいたいです。」と趣旨を説明したが、G1 CLIMAX=リーグ戦というものが定着していたファンの反応は今ひとつだった。
また新日本プロレスの展開もNJCの存在を薄くした要因になった、当時のIWGPヘビー級王者は全日本プロレスの所属だった小島聡で、3月26日の両国大会では中邑真輔を相手に時間切れ引き分けで防衛するが、同日に開催された挑戦者決定トーナメントで前王者だった天山広吉が優勝、5月14日の東京ドーム大会での挑戦を決めたことで、なぜ"挑戦者決定トーナメントをやったのに、またトーナメントなんかやるの?"と開催の意義も問われた。
NJCが開幕、蝶野正洋、中西学、タイガーマスク、棚橋弘至、後藤洋央紀、スコット・ノートン、吉江豊、ケンドー・カシン、中邑真輔、獣神サンダー・ライガー、天山広吉、稔、西村修、柳澤龍志、金本浩二、永田裕志などヘビー、ジュニアの枠を超えて16選手がエントリーし、最終戦の4月26日大阪府立体育会館大会まで勝ちあがったのは天山、中西、カシン、棚橋で、IWGP王座への挑戦が決定している天山にしてみれば優勝しなければいけなかった。
準決勝の組み合わせは天山vs棚橋、中西vsカシンだったが、天山はアナコンダバイスを仕掛けた際に丸め込まれて逆転負けを喫して脱落する。そして棚橋は準決勝でカシンを破った中西をスリングブレイドで破り、第1回のNJCの覇者となったが、ファンの反応も今イチ、観客動員も満員止まりと散々たる結果となった。
しかしNJCを制した棚橋は挑戦することが出来ず、既に挑戦者決定トーナメントを制していた天山がそのまま小島の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦、天山がTTDで小島を破り王座を奪還するが、試合後に藤田和之に襲撃を受け、また大会後には当時社長だった草間政一氏がオーナーだったアントニオ猪木の鶴の一声で失脚しサイモン・ケリー氏が社長に就任するという内紛が起きるなど、棚橋のNJC優勝はあっという間にかき消され意味のないものにされていった。棚橋が挑戦とされなかったのはファンからの不支持だけでなく、後押ししていた草間氏の失脚した影響もあったのかもしれない。
正直言ってNJCはこの1回で終わりだろうと思っていたら、翌年も継続され現在では新日本の看板シリーズの一つとなった。今年の春の本場所は誰が制するのか?