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対馬古族 阿比留氏の歴史

2018.08.17 02:32

大化の改新により国群制が施行され、中央から国司が赴任した。「日本書紀」天智朝六(667)年に「対馬国金田城を築く」とあるのが新制度による「対馬国」の所見だが、同10年には対馬国司から大宰府へ、唐使の来日を報告したことが見え、天武朝三(674)年には対馬国司守が当国に産した銀を奉ったとある。

そして大宝元(701)年、対馬より金を貢上(たてまつ)ったことにより、「大宝」と建元されこのとき国司、郡司らは位一階を進められたと『続日本紀』にある。

この国司は中央から遣わされた官僚だが、郡司は在地の豪族で、対馬の郡司は上県も下県もその姓を『直(あたい)』と称している。

これは対馬の古族、県直(あがたのあたい)が新制の郡司になったわけで、上県直(かみあがたのあたい)が上県郡司、下県直が下県郡司となっている。

それは旧来の姓(かばね)であった直(あたい)を姓(せい)としたもので、文字は一貫して直と書くが、大化の改新以前と以後でその意味は異なる。この郡司を郡領とも言うが、その下級職に『主帳』があり主帳には卜部を姓とするものが就いている。

卜部氏文ともいわれる『新撰亀相記』によれば、上県郡に直氏と卜部氏、下県郡に直氏と卜部氏と、夜良直(やらあたい)氏があり上・下の直氏を国造(こくぞう)とも呼んでいる。

この国造も大化前代の国造(くにのみやつこ)とは異なるもので、通称『律令制国造』という。

またこれに「夜良直」とあるのが何者かよくわからなかったが、夜良は国府が置かれた浦の地名与良(よら)に通じ、現在の厳原の古名である。

厳原港の東南に野良(やら)と言う地名があり、浦の岬を耶良(やら)岬というのは、夜良の遺跡といわれている。

そこで夜良直とはもとは下県の一族で夜良(与良)に開かれた国府の下級官僚(雑任(ぞうにん)国司)となったものではないかと考察される。

また「与良祖(よらのおや)神社」があったのはその祖神であろう。

律令制による国は、大国・上国・中国・下国とがあるが、対馬島は下国の格で守(かみ)の次の介はなく下級官としての場もなく、目一名と史生三名が定員であった。

また郡制は大・上・中・下・小の五段階あり対馬の両郡は下郡で、大領・少領各一名と主政はなく主帳が一名の定員とされている。

この正規の職員のほかに雑任と呼ばれる在地の下級職があって、「雑任国司」「郡雑任」と称していた。

このとき郡領となったのは直氏で、主帳は卜部氏だがこの一族から神祇官の卜部の要員も出るわけで、両郡から五名ずつ上京していた。

天安元年の変

『文徳天皇実録』の天安元(857)年6月25日の記に、大宰府より駅を飛ばして大変な事件が報告されている。

対馬島上県郡擬主帳卜部川知麻呂、下県郡擬大領直浦主ら、党類三百人ばかりを率い、守立野正岑(かみたつのまさみね)の館を囲み、火を放ちて正岑ならびに従者十人、防人六人を射殺と言上。

とあり、これは上・下の郡司らが国府を焼き国司を殺害した「変」である。

大宰府より派遣された兵によって鎮定され、厳密な詮議を経て刑罰が下された。

それは『三代実録』の天安二年十二月八日の記に、「太政官論奏して曰く」として、

「対馬島下県郡擬大領直氏成上県郡擬少領直仁徳ら、部内百姓首従十七人。兵を発して守立野正岑、及び従者榎本成岑らを射殺。氏成らの罪、皆斬に当たるも称されて死一等を減じこれを遠流に処す。」

とある。上県と下県の郡司が呼応して三百人もの島民を率いて国府を襲撃したことについては、よほどの理由があったはずで、国司の側に島民の怨嗟を受ける原因があったのではないかと思うが官選の国司はそれについては何も記録していない。その刑の宣告において「その罪は斬刑に相当するも、詔により死一等を減じて遠流に処する」とある。

当時、この国は死刑がなかったからだが、それにしても情状酌量された判決文ともとれるだろう。

また獄中での詮議は厳しかったようで、天安元年閏七月十六日の記には、「対馬島の賊類にして、脅迫されて賊島に入りたる者、および獄中にて死亡したる無実のもの妻子を無罪放免」とあり、獄中での死亡者が多かったことが推察される。

決起の首謀者とみられる卜部川知麻呂,直浦主の名が流刑者の中に見えないのは、おそらく獄中で責め殺されたのであろう。

対馬直一族の行方

平安時代の初期はその名のごとく戦争のない平和が続いたが、やがて律令制の矛盾から各地で「乱」が頻発した。対馬の「天安元年の変」はそれの早い時期で、「乱」とは言わず「変」で留まった感がある。

それでも対馬の歴史にとって、これは大きな事変であった。この「変」の結果、島の名族「対馬直」(津島直)の一党が、族の名を負って史上から消えたことである。

遠流の先はわからない。想像されることは死一等を減じての遠流であることからして、最も遠い所だと思う。

そこで奥州が思い浮かぶ。奥州(青森県)の津軽には、津島あるいは対馬とした姓が多いのに驚いた。

近世初期、「柳川一件」と呼ばれる外交上の紛争で、将軍家光の親戚により津軽に流謫となった対馬藩家老柳川豊前調興(しげおき)の菩提も、弘前城下の長松寺にある。

これを訪ねて感銘したことは、津軽での調興は罪人としてではなく、客人として津軽侯に遇されていたことである。

対馬の直もこれと同じく普通の罪人ではなかったのではないかと考えられる。

阿比留氏の台頭

天安元年の変で、下県大領直氏成、上県郡少領直仁徳以下、郡司の一族から遠流に処せられた者が出て、これ以後「直」の姓を見ることがない。

直氏が滅亡したのではなく、残った者は直の姓を憚(はばか)って、改姓したのであろう(後年、柳川一件の後、柳川の係累は改姓している)。

平安朝も10世紀後半には、国・群・郷の機構に変化があったがこの時、対馬在庁に「阿比留」と称する一族が台頭した。

史料の初見は寛弘五(1008)年の銘を刻した豆酘御寺の梵鐘に、「正六位上権掾阿比留宿弥良家」とある金文だが、これ以来「掾」(じょう)を官職とした阿比留が中世まで続き、通称「在庁」呼ばれていた。

対馬は遠国ゆえ都で対馬守に任命されても現地に赴任せず、いわゆる遙任となる場合が多く、国府の権は下級官人である掾官の手腕に委ねられることが多くなり、後に「阿比留在庁」と言われるほどに、この一族が国衙(こくが)も群衛も支配した。

この阿比留氏の出自については、弘仁四(813)年に刀伊賊(といぞく)が対馬を攻めたとき上総国畔蒜(あひろ)郡より勅命を受けて来島、賊を討った功により国府の掾官に任ぜられたと言うのだが、これは後世作られた「説話」である。弘仁四年の刀伊入寇を確認できる史料もなく、その当時は対馬国府に掾官はないはずだ。

上総国に畔蒜郡があったことは確かだが、その期間は短く現地ではその地名も一般に知られていない。

それでも安蒜と言う姓は今もある。そこで対馬の阿比留という姓がどこから来たのか?となるといくつかの説があるが、私見では「在地出自説」をとる。

それは国府在庁にいたと見られる「夜良直」の後身だと思う。上・下の直が追放された時、国府の官人である夜良直は残ったはずで、これが国府機構の改革により新たに置かれた掾官に任命されたのだと思う。

直の旧姓を改めて『阿比留』としたものと考察した。そこで「アヒル」という名義については、「オオヒルメ」だと思う。それを考えたのは、阿比留一族が後世まで地の神社や天道祭祀に深く関与していたことが挙げられる。

もう一つ考えられるのは、「天皇家より阿という文字は、(高貴な人につける)尊称、阿弥陀などか?または、大宰府官人かもしくは国司)付け比は「此」(ここ)という字。留は、留(とどまる)という文字をあてたという事を考えると、夜良直が最後まで対馬に留まったという事により阿比留という苗字は、天皇・国司・大宰府官人の何れではなかろうか?

阿比留家が格郷村(旧郷の主邑)にいたものだが、それが郷村の祭祀に特別の関係を持った例が多く、豆酘の阿比留氏はホーヘシ(奉幣使)と呼ばれ、鶏知(けち)在庁は住吉神社の宮司であった。

また三根在庁(峰町)は当国一の宮「木坂八幡宮」を管理する社役で、伊奈在庁(伊奈)もこれに関与していた。唐洲在庁(豊玉町唐洲)という家があり、当地の祭祀を管理したがこれは本来仁位にあったのが、いつの頃か唐洲に移ったのではないかと思われる。

また上県郡の佐護在庁と下県郡の佐須在庁は、近世からその形跡が不明だが両地とも対馬六観音の所在地であることからして、在世時には当然その祭祀に関係していたはずである。

なお藩政時代を通して明治初期まで、対馬国総宮司職として神祇行政を管掌し、復古神学の名家として本居宣長や伴信友とも親交のあった藤家一門は、藤斎延、定房、斎長、仲郷と続く学者を輩出し、神道史に大きく貢献したが、この藤氏の祖 藤原秋依は、鎌倉初期に阿比留から藤原に改姓した人である。

それは文治五(1189)年四月二日付で、国府在庁の目であった藤原秋依が、国宣により「掾官併八幡宮主神司職」に補任された資料がある。

その頃の対馬在庁は、惟宗(宗氏の旧姓)一名の外は全員阿比留一門で占めていた時代であった。

阿比留神楽(あびるかぐら)

今からおよそ750年前までは対馬には、「阿比留神道」と云われた独特の祭祀の形があったと思われる。

阿比留祝詞、阿比留神楽、さらに阿比留文字まで、興味深いものが残されている。

寛元4年(1246)殺されるはずだった阿比留の主流、平太郎の長男「土佐守」は、古記録の通り、五島の岐宿村へ渡って助かって巌立神社の祭りを続けていた。五島の郷土史家で、岐宿町文化協会長「松山勇氏」の説明によると、巌立神社の神楽は、かつては福江島のほぼ全域に広まっていた。

それが紀元2600年祭から、大方が「浦安の舞(うらやすのまい)」に変えられてしまったが、岐宿では、巌立神社に伝わった伝承行事を絶やさないようにと、岐宿郷の人たちが中心になって、伝来の神楽舞を続けてきた、と説明を受けた。祭りは、9月15日の前日から、岐宿地区の全戸総出で行われる。

これは厳原八幡宮家々、残らず張り巡らされ、町は祭り一色となる。神楽舞を舞う人は一週間前から、毎晩練習すると云われる。祭典は町内総出で準備される。

当日の神前神楽奉納は午後2時頃から神楽殿で、舞は次々に入れ替わり演舞奉納され、終わるのは午後6時頃になる。

神楽舞の批評をする力はないが、舞は優美で、受け継いだ人たちの誇りが感じられた。動きには厳しい伝承が守られ、遠い時代阿比留神道が、対馬から広めたそのままの神楽と云われる。

四十八番舞のうち、天台矢房の舞など、鎧冑を必要とする舞の幾つかが、鎧の糸が朽ちて、修理する人が居なくなったために、止んだそうである。

おろちの舞や、長刀の舞など、すべての舞に要する武具は伝来のまま、近代に更新した記録は見えないとのことだった。古いものを継承するには、それなりに世話人のご苦労をともなうものだろうと、心中敬服しながら拝見した。

対馬では近世初期まで、形だけは八幡宮で奉納されていた形跡があるが、古い舞装束のあったことを伝えるのみで、対馬の主流は、法者による「命婦舞」と「浦安の舞」に変えられて、以後は旧に戻ることはなかった。

対馬伝来と云われる神楽舞だが、対馬にはよくよく神道文化が育っていたらしい。

対馬へ浦安の舞が入ったのは正確にはわからないが、明治以降と思われ五島と同じように紀元2600年からかもしれない。ここで岐宿町巌立神社の資料の一部を抜粋致しました。

「巌立神社由緒」「――巌立の神名に因るところ神社の起こりなり、零天より降来る、岩を立てこれに神を向かえし太古の祭祀ならん。今この形は対馬に現存す、しかしてこの権現の主阿比留姓と同姓にして対馬の神主なり、しかもこの神は対馬より来り給うと、云々。

それとこれ対馬のひもろぎありき、岐宿権現対馬より飛び来るの伝説、阿比留姓の符号、しかもここの別当寺は今廃寺となれるも本宮寺といえり。現に六地蔵存す。阿比留は対馬なり」。

「五島編年史」より抜粋

弘和3年(1383)八代覚公の世に、対馬から「阿比留左京助」というものを招き、代々神主に定められ、神楽師(比留木、比留沢)も、共に招いて、巌立神社を五島4社の一宮として盛大に祀り、天下太平国家安穏を祈らせ、多くの善政を敷いたので、島民心服し神社社役>代々世襲で、祭り神楽四十八番はそのまま今に続いている。

対馬古族   阿比留氏  推論2 蘇我氏の子孫!?

阿比留氏の祖は,かの蘇我氏傍流の子孫で比伊氏といい、朝廷に罰せられ、上総国畦蒜郡(千葉県袖ヶ浦市)に流された。

弘仁年間(810~824)、対馬に刀伊が来襲した際、朝廷は比伊一族の罪を免じ、比伊別当国津に刀伊賊の追討を命じた。しかし、国津が出発前に死去したため、その男子太郎行冬 ・次郎行兼・ 三郎行時が父に代わって追討することとなり、関東から対馬に渡った。

佐須に戦って刀伊賊を撃退するも、太郎は死去。次郎・三郎が対馬に定住し、初めて「阿比留」を称した。その後、阿比留氏は次第に勢力を増し、在庁官人となってしばらく対馬を治めた。

しかし、阿比留平太郎国信は大宰府の命を聞かず、 鶏知(美津島町鶏知地区)に居館を構え、全島に阿比留一族を配して恣意に統治した。

一方、 国信の弟時信は兄の治世に反発し、大宰府に内通。大宰府は3人の武士 (スパイ)を漂流民と偽り潜入させて、国信討伐の機会を窺った。寛元3(1245) 年12月、大宰府から惟宗重尚(これむねしげひさ)に阿比留討伐の命が下る。

翌元旦に40隻の 船に200人の兵を乗せ、豆酘(ツツ)地区に上陸。この地区を治めていた長範を討った。軍は北上して厳原国分地区に入り、西山寺に陣を構えて作戦を練る。一方の国信は弟の法印を以て桟原地区に陣を敷かせ、自身 は上見坂~鶏知地区に陣を張った。

そして遂に、戦いの火蓋が切られる!まず、重尚は法印の陣に火を放つ。法印は陣を捨て、上見坂に後退。国信は救援を送るが、重尚軍は速攻で上見坂を登り詰めたので間に合わない。そして、反乱軍時信が鶏知地区の阿比留氏の本拠に火を放つ。

国信は前方を重尚軍、後方を時信反乱軍に挟まれてしまう。動揺した国信軍は重尚軍との戦いを放棄し、本拠の鶏知へ後退。しかし、時信軍は更なる追い討ちを掛ける。国信は焼け落ちる居館に辿り着くが、あっけなく重尚軍に捕われ斬首、最期を遂げた。

その首は鶏知中学校運動場の北端、桟原の山の麓に埋められた。そして、長い宗氏の歴史が幕を開けたのだ。

阿比留文字 ハングルは日本人によって作られた

◎ ハングル文字の起源は、日本または韓国どっちが本家本元か?

歴史評論家「竹下義朗」さん曰く。

「ハングル」、正式には「訓民正音(フンミンジョウウム)」と呼ばれ、李朝第4代王「世宗(セジョン)」によって、1446年に公布された「表音文字」である。子音(しいん)字母17、母音(ぼいん)字母11(現在は子音字母14、母音字母10)を巧(たく)みに組み合わせたものである。 

「世宗」がどうして「訓民正音」を創案したかについては、李朝の王宮のなかにある国王が政務を執(と)った「思政殿(サジョンジョン)」の障子(しょうじ)の桟(さん)を見ていて思い立ったという。

「思政殿」は現在でも残されており、ここにはその旨を朝鮮語と英語で表記した立て看板がある。 

しかし、この話は上手(うま)すぎる、どこかに見本があったのではなかろうかと考えていたら、先の書物で、対馬の占部阿比留家(うらべあびるけ)に伝わる「阿比留文字」だというのである。確かに「阿比留文字」は「訓民正音」ソックリである。

この「阿比留文字」は「ハングル」を真似たものとして否定されているが、「訓民正音」が文字の左上に子音、右上に母音、下に子音という<三次元構成>であるのに対し、「阿比留文字」は文字の左側に子音、右側に母音と<二次元構成>となっており、「訓民正音」の方が進化していると考えられる。

こうしたことから、「訓民正音」の方が「阿比留文字」を模倣したと考えるのが自然であるという。なかなか面白い考察である。

ところで「ハングル」という呼び名は、日本が付けたものである。「ハン」とは朝鮮の古語の「大」を言い、「グル」は「文字」を意味する。「大いなる文字」という意味である。

甲午改革(1894年)から「訓民正音」に替えて「国文」と呼ばれていた。現在、韓国では「ハングル」が公式呼称である。

しかし、日本が付けたとはどこにも書いてない。歴史を隠蔽している。北朝鮮では、このことが忌避され、「朝鮮文字(ちょそんくる)」が公式呼称である。

なお、「訓民正音」は公布されたが、この「真文(正しい文字)」つまり「漢字」に対し「諺文(おんもん)」つまり通俗的な文字と呼ばれ、女・下賎(げせん)の者の使う文字として蔑(さげす)まれ一向に普及しなかった。

これを普及させたのも「朝鮮総督府」である。このことも韓国では明らかにされていない。

逆に日本が「ハングル」を奪ったなどと歴史を捏造している。

対馬 阿比留家に伝来。また主に法隆寺、三輪神社、鹿島神宮に秘蔵され、現在確確認されているだけでも13種類の書体が存在する。また、出雲大社にも“出雲文字”と呼ばれる書体がある。

藤原不比等や平将門、源頼朝らがアヒル草文字で書かれた奉納文を伊勢神宮へ献文している。

しかし、いずれも戦前までそれらの存在は、写真や写しなどで確認されていたのにも係わらず、なぜか現在では紛失している。

阿比留文字 日文 肥人書(こまひとのふみ)

阿比留文字 縦組み

阿比留文字 横組み

対馬 卜部-阿比留家に伝えられたことからアヒル文字と呼ばれる説(神字日文伝・平田篤胤)とト部家がアヒル文字を伝えて阿比留家となった説(竹内義宮氏)がある。

書体は、横組みと縦組みがあり、その構成はハングルと似通った文字種であるが模倣したものならアヒル文字の出現は、ハングルの制定1446年 李朝世宗時代以降となる。

しかしそれ以前のものと思われる古い神社に伝えられる神札や石碑などにアヒル文字が使われていることに疑問が残る。

宮崎県の円野神社(創建703年)にアヒル文字で刻まれた石碑が出土しているが、どういうわけかその石碑の存在自体も無視されている。

阿比留草文字 日文草書 画像

薩人書(さつひとのふみ)

阿比留家 伝来

鶴岡八幡宮秘蔵

出雲大社秘蔵

節墨譜文字

※ 画像は、下へスクロール参照

法隆寺秘蔵

対馬 阿比留家に伝来。また主に法隆寺、三輪神社、鹿島神宮に秘蔵され、現在確確認されているだけでも13種類の書体が存在する。

また、出雲大社にも“出雲文字”と呼ばれる書体がある。

藤原不比等や平将門、源頼朝らがアヒル草文字で書かれた奉納文を伊勢神宮へ献文している。

しかし、いずれも戦前までそれらの存在は、写真や写しなどで確認されていたのにも係わらず、なぜか現在では紛失している。

---------- 用語解説 ----------

大化の改新

飛鳥時代の孝徳天皇二年春正月甲子朔(西暦645年)に発布された改新之詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。日本の歴史上記録に残っているもっとも古いクーデターといえる、乙巳の変(いっしのへん)の後に行われた。

天皇の宮(現代で言えば首都)を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となった。

真の改革者だった蘇我入鹿を暗殺し、実権を握ろうとした中大兄皇子が起こしたという説があり、また、蘇我入鹿は皇位簒奪を狙っていたという説もある。

国 司

古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す。

郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。

金田城(かなだじょう、かねたのき)

飛鳥時代に対馬国に築かれた古代朝鮮式山城。所在地は長崎県対馬市美津島町黒瀬城山。国指定特別史跡。

対馬の中部にある浅茅湾の南岸に突き出た標高275mの城山(じょうやま)に位置する。

山頂部に石塁、山の周囲を取り巻くように石垣が築かれている。南東麓は比較的緩やかな斜面で、海に通じる三本の谷(北から順に「一の城戸」「二の城戸」「三の城戸」)には城壁が残っており、さらに水門と城門が設けられていたと考えられている。

また、「二の城戸」と「三の城戸」の中間に位置する「ビングシ山」周辺から複数の建物跡が発見されており、防人宿舎など中枢機能があったと考えられている。

663年の白村江の戦いに敗れた倭国は唐・新羅に対する防衛のため、西日本各地に防衛施設を築いた。その一環として、667年に対朝鮮半島防衛の最前線として築かれた。

郡 司

律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。

はじめは、評造・評督などと呼ばれたが、701年(大宝元年)に編纂された大宝令により大領・少領・主政・主帳の四等官に整備され、任期制であった国司とは異なり、大化以前の国造(くにのみやつこ)などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官だった。

主 帳

律令制で、諸国の郡または軍団に置かれ、文書の起草・受理をつかさどった職。

卜部

卜の字は占いのため亀の甲を火で灼いて生じる亀裂の形に象り、占いを意味する。古代の中国人はこの亀裂の形によって天意を伺い、吉凶を判断していた。これを亀卜という。

古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。

卜部氏は対馬国(10人)壱岐国(5人)伊豆国(5人)にあり、神祇官の宮主など下級職員として任じられ、亀の甲羅による卜占を行っていた。天児屋根命12世の雷大臣(いかつおおおみ)を祖とする。

国 造(くに の みやつこ・こくそう)

律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓(かばね)の一つである。音読みのときは「こくそう」とにごらないのが一般的である。

訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされ、もともとは渡来系技術者集団に与えられた姓(かばね)のひとつ。

下級官僚(雑任(ぞうにん)国司)

律令制で、諸官司の主典(さかん)以下の下級の官人。舎人(とねり)・兵衛(ひようえ)・資人(しじん)など。

三代実録

平安時代の日本で編纂された歴史書で、901年に成立。六国史の第六にあたる。

清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代、天安2年(858年)8月から、仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。

編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。記述の密度は六国史中もっとも高い。詔勅や表奏文を豊富に収録し、先例のできあがった慣行を記載するなど、読者たる官人の便宜を図った。

節会や祭祀など年中行事の執行を毎年記す。陽成天皇の退位の事情など、権力者にはばかって筆を抑えたと思われる箇所がある。元慶の乱では、ところどころ記録が欠けていると記して略した箇所がある。

これを誠実な態度の表れとみる者もいるが、その部分に編者が故意に隠した事実があるのではないかと疑う者もいる。巻15と、巻19から巻48、すなわち貞観10年(868年)と貞観13年(871年)1月から仁和元年(885年)12月には、ところどころ写本の省略箇所があり、全文が伝わらない。

六国史は本書をもって絶える。その後も修史事業は試みられ「新国史」なるものが存在したと伝聞されるが、若干残った逸文から見ると完成奏上に至らなかったとする見解が主流であり、原因としては律令政治の衰退があげられる。

国府

律令制において、国司が政務を執った施設を国庁といい、国庁の周囲は塀などによって方形に区画ていた。国府とは、この国衙周辺に形成された都市を指す語である。国府には、国庁を含む国衙が設置された他、国分寺、国分尼寺、総社が集中して建てられることもあった。

そのため、現存する国分寺、総社、国府(こう)の地名が、国府遺跡所在地の推定の手がかりとなっている。対馬では厳原を指す。

柳川一件(やながわいっけん)

江戸時代のはじめ、対馬府中藩主宗義成とその家老柳川調興が日朝間で交わされる国書の偽造をめぐって対立した事件。17世紀初頭、日本の豊臣政権による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日朝、日明関係は断絶する。戦後、日本で徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始する。

日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は、その地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存しており、対馬藩では朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。

朝鮮側からはまず朝鮮征伐の際の罪人を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の罪人の喉を水銀でつぶした上で差し出した(朝鮮征伐とはまったく無関係の罪人である)。

これらの対馬藩の形振りを構わない努力の成果か、朝鮮では満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあり交渉には宥和的で、1605年、朝鮮は徳川政権からはじめに国書を通じることを要求。

対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出する。

書式などから偽書の疑いが生じるが、朝鮮は回答使を派遣し、対馬は幕府には通信使と偽り、使節は江戸城において2代将軍徳川秀忠と、駿府で大御所の家康と謁見する。

対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれに国書の偽造、改竄を行い、1609年には貿易協定である己酉約条を締結させる。

対馬藩の家老である柳川調興(やながわしげおき)は、主家から独立して旗本への昇格をねらっており、藩主 宗義成(そうよしなり)と対立した。

そこで対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出るという挙に及んだのである。

寛永12年(1635年)3月11日、三代将軍家光の御前で、宗義成、柳川調興両名の対決が行われた。

江戸在府の大名が総登城し、江戸城大広間で、対決の様子が公開された。結果、宗義成は無罪、柳川調興は津軽に流罪とされた。

結局の所柳川調興の予想とは逆に、幕府としてはこれまで通り、日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断したのである。

柳川事件ののち、幕府は国書に記す将軍の称号を「日本国王」から「日本国大君」に改め、京都五山の僧に外国文書作成や使節の応接、貿易の監視などを命じ、日朝貿易はこれまで通り対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれた。

掾(じょう)

日本の律令制四等官のうち三等官を指す。「掾」の文字は国司の三等官(中央政府における「判官」一般的な事務に相当する)を指す。

特に大国と呼ばれる最上級の令制国には特に大掾・少掾が設置された。1が転じて、後世、朝廷から、出入の商人や刀匠、浄瑠璃の芸人などに対して、その技芸を顕彰する意味で下賜された官名。

もっとも後代まで残存していたのは浄瑠璃における掾号であった。

日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語。

平安時代頃までに、国司の役所そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となった。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られる。

国衙(こくが)国庁および区画された領域を総称をいう。

刀伊賊(といぞく)

高麗が北方の蛮族を指す時に使う名称であった。賊船約50隻の船団を組んで対馬・壱岐を襲撃し、壱岐守理忠を含む多くの島民を殺害し対馬を制圧、1300人を拉致した後、筑前国怡土の郡に襲来、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らしまわった。

これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちにあい、逃亡したと記されている。

天道祭祀

一般的にお天道様(おてんとさま)とも言うように太陽を神として祀られる。

また天童信仰においては日の神の子として天童(てんどう)という言葉もある。

奉幣使

神へのささげものを届ける人。*御幣物=天皇陛下の御奉納品

八幡宮   

八幡神社の原点は、宇佐八幡ではない。

対馬は八幡信仰の原点であるといわれている。対馬には八幡信仰に関連する神社が2つある。

1つが海神神社、もう1つが厳原八幡宮である。海神神社は海神(ワタツミ)が鎮座する地である。

主祭神は豊玉姫命。今でも神霊的な反応が強く発生する。海神神社は、平安末期から明治になるまでは、「上津八幡宮」と呼ばれ、日本の八幡神の発祥の地であるといわれた古社である。

対馬一宮としての威風を感じさせる神社である。神宮皇后が新羅征伐の帰途対馬に立ち寄り、ここに「幡八流」を奉納して神祭りをしたという伝承から、八幡神発祥の地とされたのである。

対馬では下津八幡宮(現在の厳原八幡宮神社)を新宮といい、上津八幡を本宮と呼んでいた。

中世には神仏習合となって八幡大菩薩をご神体として国家鎮護の神威をふるった。

明治4年に名称を海神神社に改め、表向きは八幡神とは一線を画したことになっているが、ここはもともと八幡信仰が広まる前には和多津見御子神社という海神信仰の中心地だったので、もとの姿に戻ったのだということもできる。

一方、厳原八幡宮の場合、平安時代後期(11世紀)に和多都美神社から下津八幡宮に名称が変わっている。仏教と習合した八幡大菩薩をまつっていた。つぎに、戦国時代~明治4年にかけては府中八幡宮と称した。この時期、応神天皇とその母神宮皇后を主祭神とするいわゆる応神八幡であった。

それが明治4年~23年には和多都美神社と称すようになった。つまり古名に戻ったわけである。

再び海神を主祭神としてまつった。さらには、明治23年に厳原八幡宮と称すようになり現在に至っている。またもや祭神が変更され、神宮皇后、応神天皇、仲哀天皇、姫大神、武内野宿禰を祭神としているのである。厳原八幡宮ももとは海神をまつる「和多津見神社」だったのである。

対馬では伝統的に海の神が強く意識されてきたのであるが、それが八幡信仰との習合によって、八幡神は海の神であるというイメージも付加されたのではないだろうか。

本居宣長(もとおり のりなが)

1730年6月21日(享保15年5月7日) - 1801年11月5日(享和元年9月29日))は、江戸時代日本の国学者・文献学者・医師である。名は栄貞。

伴信友(ばん のぶとも)

1773年3月17日(安永2年2月25日) - 1846年12月2日(弘化3年10月14日))は、江戸時代の国学者である。

国宣(こくせん)

『庁宣〔ちょうぜん〕』 とも言い、国司から管内に令達する公文書のことです。

浦安の舞(うらやすのまい)

神楽(巫女神楽)の1つ。近代に作られた神楽である。1940年(昭和15年)11月10日に開かれる「皇紀二千六百年奉祝会」に合わせ、全国の神社で奉祝臨時祭を行うに当たり、祭典中に奉奏する神楽舞を新たに作ることが立案され、当時の宮内省楽部の楽長である多忠朝が国風歌舞を下地に作曲作舞した神楽舞である。

浦安の舞は舞姫(巫女)によって一人舞、二人舞、四人舞で舞われる女舞である。正式は四人舞である。舞は前半の扇舞と後半の鈴舞とがある。

浦安の語義としては、「うら」は心を指す古語であり、「うらやす」で心中の平穏を表す語であるとされる。また、日本書紀に「昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。」とあり、他の文献にも日本国の異号として「浦安国」とあることから、神祇の安寧慰撫と国の平穏無事が、題名である「浦安」の語に込められている。

命婦舞(みょうぶのまい)

対馬海人神社

国選択無形民俗文化財

かみ(長官)・・・事務の総括

すけ(次官)・・・かみ(長官)の補佐

じょう(判官)・・・一般的な事務

さかん(主典):::書記的な事務 

阿比留草文字 日文草書

薩人書(さつひとのふみ)

阿比留家 伝来

鶴岡八幡宮秘蔵

出雲大社秘蔵

節墨譜文字