今だから言えること。
いつの時代も、「非常識」なことがあって、
それが、テクノロジーの進歩によって「常識」に変わっていきます。
つまり、今の非常識は未来の常識とも言えます。
なぜこんなことを言うかというと、
新型出生前診断は、今の時代、今の日本では「命の選別」「中絶を促す検査」「選択的中絶を増やす検査」と言われ、「非常識」だと言われています。
今の時代に合った倫理観ではないので、こうした発言が多く見られますが、このような考え方はとても正論だと思います。
障がいがあるから、中絶するなんてあってはいけない。
検査を受けて、陽性だったら即中絶というのはどうかと思う。
さまざまな意見があると思います。
ただ、その意見は「誰に向けた意見」なのかハッキリしていません。
夫婦なのか?妊婦さんなのか?社会なのか?
実際のところ、新型出生前診断を受けて陽性だった場合の夫婦の心境を考えると、中絶を選択したことに対して批判することは難しいと思います。
夫婦が考えて出した結果ですから。
それが、安易な考えのもとに起こったとすると、それは夫婦の問題ではなく、医療や社会の問題です。
じっくり考えるための判断材料の不足。
染色体異常の子どもが生まれても社会で生きていけるような環境の不足。
これらを棚に上げて、新型出生前診断が中絶を促す検査だと言っても、それは事実ではありますが、真実ではないと思うのです。
やはり、真実は「社会」であったり、「人間関係(親戚など)」に問題があるわけです。
障がいを持つ家族、親族が居ない人というのは、陽性の場合「育てていく自信がない。」と思うものです。
こうした人たちの精神的なサポートなしに、新型出生前診断を否定することは、
妊婦さん、夫婦の「お腹の子どもの情報を自由に知る権利」を脅かすことになります。
新型出生前診断は、あくまで「可能性」を示唆するもので、実際は羊水検査などの確定診断を受けるかどうかを調べるものなのです。
この検査が、あたかも命の選別になるというマスメディアの発言は少し焦点が違う気がするのです。
そもそも、なぜ選択的中絶がなされているのかと言うと、日本には中絶できる期限が決まっているからです。
なおかつこれまでの歴史において優生保護法の制定、現在母体保護法として残っています。
新型出生前診断が誕生する前から、出生前診断やクアトロマーカー、羊水検査などに対しても新型出生前診断と同様に選択的中絶を促す検査と言われていました。
ただ、今は新型出生前診断にスポットが当てられて、被害者という形になっています。
冒頭に話したように、今の非常識は未来の常識に変わる、そうなっていくので、
新型出生前診断の次にさらに新しい検査が生まれれば、そちらに議論が移るだけで、結局私たちは、検査云々ではなくて、生命をどう扱って行くのか?という答えの見えない問題を強引に解決するために検査を批判するという形をとっていると言っても過言ではありません。
結局、医療というのは「正しい情報公開」「正しい検査、治療」があって初めて成り立つものです。
それを、社会という枠組みに無理やりはめ込んで進化する医療の発展を遅らせること自体が宜しくないのです。
もちろん、染色体異常があってもこの世に産まれてきてもらうことが出来ればそれがベストだとは思うが、
今の日本の社会、障害者に対する視線、特に都心部ではなく地方になればなるほど厳しいものがあります。
その中で、夫婦が産むか産まないかの選択をしたとして、どちらの選択も間違いではない気がするのです。
障がいがあるから中絶をしているのではなく、
今後生きて行くための個々の問題が中絶を増やしているのだと思う。
これは、仕方ないことではあるが、単に障がいを持つ人たちが今の日本では息苦しさを感じて生活しているのではないかと思うのです。
障がいを持っていても、健常者と同じように仕事をして、同じように給与をもらい、同じような生活を送りたい。
これらの支援がまだ満足に行き渡っていない現状というのは、調べればたくさんあります。
こうしたことが、夫婦の選択に影響しているとすれば、私たちは新型出生前診断が中絶を促しているという間違った答えを導き出し、
そして、こうした過ちを何度も何度も繰り返すのです。
昔を振り返り、大切にすることが出来ますが、「あの時はこうだった」というその時代の倫理観ではなく、「あの時の悲劇を再び繰り返さない。」という教訓にしていかなければなりません。
新型出生前診断について日本では問題視されている中で、国としては学会に委ねるとしている時点で、私たちは私たちでこの検査を受けるかどうかを選択して、産むか産まないかの選択を決めなければならないのです。
自由な権利が、私たちを不自由にしているのであれば、一度立ち止まって考えを改めないといけないのです。