8月16日 花巻市東和町→遠野市(49km)
昨晩は豪雨。雨音がひどく、よく眠れなかった。今日も予報では終日雨。岩手県の一部で土砂崩れや浸水の被害がみられた模様。
そこで、一行は道の駅から さほど遠くない、花巻 新渡戸記念館へ。
この記念館では、新渡戸稲造の生涯と花巻新渡戸氏228年の歴史を辿る展示がある。
新渡戸稲造は、農政学者であり、札幌農学校、京大、東大等で教鞭をとった教育者であり、国際連盟事務次長を務めた国際人。さらに、『武士道』を記した著述家でもある。
その肖像は1984年〜 2007年の間に発行された五千円札紙幣に印刷されていることで、皆さま御周知の通り。
ここは、新渡戸家住居跡。
新渡戸家は稲造で第44代となる名家であり、南部盛岡藩に仕えた武門の家柄であった。
祖父・新渡戸傳の代からは新田開発にも携わり、現在の青森県十和田市周辺の発展に大きく関わっている。
記念館では、そうした新渡戸家にゆかりの品々を展示しているが、特に新田開発に関する文書やジオラマなどの展示が充実しており、武士による新田開発事業の概要がよく分かる。
新田開発は、新渡戸家が藩から命じられたものというより、新渡戸家当主の強い希望により藩の認可を得て行われたもので、高い経済感覚や実務能力を持っていたことを窺わせる。
稲造が農政を志し、札幌農学校(北大の前身)の二期生として学んだ背景には、江戸後期の新渡戸家のこうした実績と使命感が強く影響していた。
ここには稲造自身の生涯についての展示室もある。彼は札幌農学校時代にキリスト教に入信し、『 武士道』で日本人の精神的土壌の一つのモデルケースを紹介し、国際連盟事務次長としてユネスコの前身、「国連知的協力委員会」(キュリー夫人やアインシュタイン、タゴールなどを委員に招聘)を立ち上げるなど、理想主義者としての生涯を貫いた。
しかし、晩年にはそんな彼の意に反して日本は日中戦争に突入し、反日感情を緩和すべくアメリカに渡るも、昔の友人たちからも理解を得ることはできなかった。そして、日本はついに国際連盟を脱退する。
カナダで開かれた「太平洋問題調査会会議」に日本代表で参加した彼は、会議終了後、帰国の途につこうと向かった港で病に倒れ、失意のうちに客死してしまうのである。(Y)
世界平和と幸福を希求し、国際人として世界に認められる一方で、祖国の置かれている現状、向かおうとしている状況を目の当たりにした稲造。その無念たるや、計り知れず。(K)
続いて訪れたのは、花巻市内にある宮沢賢治記念館。
童話作家として知られる賢治は、農学を専攻した農業技術者・教育者でもあり、在家仏教団体・国柱会の活動に参加する熱烈な法華宗の信仰者でもあった。そして、花巻農学校の教師を辞め、自ら農村に入り農業知識の普及や農村文化活動を実践する。
彼の活動は単なる農業技術者の枠を超え、科学識普及のため教材を編纂したり、農民による楽団を組織すべく、自らチェロを学んだりしている(これは挫折した)。まったく、短い生涯を文字通り怒涛のように駆け抜けた人だった。
晩年には、東北砕石工場の技術者・営業担当者として、土壌改良のため石灰の活用を普及しようとした。ところが、冬場の農閑期には石灰は全く売れない。賢治は石灰を壁材料として活用することを思い立ち、40キロものサンプルを東京まで、トランクに詰めて自ら運んだ。肺病を患っていた賢治は再び倒れ、花巻に戻り病臥生活に入ったが、2年後に37歳でこの世を去る。
記念館では、ホールの丸い壁面を、「農」「宗教」「宇宙」「芸術」「科学」と5つのコーナーに分けて、賢治の残した童話の草稿や手紙、自ら編纂した科学技術の普及教材、農民に個別に作成した肥料設計書など、豊富な資料を展示している。
残念だったのは、展示方法が十分に整理されているとは思えず、散漫な印象を与えることだった。また、賢治の肉筆資料の展示では、全てではなくても、内容を活字として展示すべきではないかと思った。
遠野市に移動し、道の駅「遠野風の丘」に宿泊。名前の通り一晩中、強風が車を揺らした。(Y)