立蔵葉子
2018.08.18 04:51
「だれ?」
電話を切ると待ち構えてたように母がきいてきた。母は砂病で左の後ろと右の前足が溶けて、けっこう前から寝たきりなんだけど、どういうわけか家のなかのことはかなり正確に察知しそして俺を使って解決しようとする。そろそろ空き缶捨てなさい、窓が曇ってるでしょ拭きなさい、さっき来たのニさんよねまた来たの?ぜんぶ正解、ゴミだしも掃除もサボってましたニもまた来てました。なんでわかんだよ、足の代わりにウサギの耳でも生えてきてんじゃねぇの。
「ねーえ、だれだったの?」
イライラが声にのっている。さすがに電話の相手はわからないらしい。
「ニだよ。」
期待通り母はだまった。いつもはニの名前を出すのは全力で避けるんだけど、弟だったとバレるよりはずっとましだ、まじでめんどくさいことになる。
「なんか来てくれって言うから、ちょっと行ってくるわ」
自分の嘘の滑らかさに舌を巻きつつ、ありがたく巻かれてそのまま玄関に向かう。向かう先をなくした母のつぶやきがドアの隙間から漏れ聞こえてくる。急げ、搦めとられるまえに外に出なければ。弟よ。おまえが砂漠になった故郷に残ると言ったとき、兄はハイヨとオッケーしてやったけど、結果120%増量した母の小言をこの兄が一人で聞いてやんなきゃいけなくなったってことは心の隅に留めといてほしいわ。父も死んだんだよ、まじで俺ひとりなんだよ。あと増加分はほぼほぼてめーの話だってことも知っておけ。
後ろ手で玄関の扉を閉じる。呪詛の言葉は断ち切られ、明るく静かな世界が広がる。足の裏にしっとりとした土の感触がある。ひんやりした温度が気持ちいい。靴はていたらこの感触もないんだな、と、ぼんやり思った。