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救いの糸 〜ジュンと僕の物語18

2018.08.20 04:30

仰げば尊し、我が師の恩。

式のあと、最後のホームルームを終え、校庭に出た。

担任教諭に思い入れはない。ただ、彼の面立ちは個性的だった。僕は、買ったばかりのアクリル絵具で彼の肖像画を描き、裏に級友らの寄せ書きを集めた。一軍連中も快く寄せ書きに応じてくれたことが、意外だった。

最後まで冷戦を続けた一軍と僕だが、今日でお別れ。笑顔でサヨナラだ。

卒業、おめでとう。

マン研顧問のスギちゃんとは、ろくに挨拶もできなかった。だが、演劇部顧問だったサワコ先生からは特別に声をかけられた。

「あなたは俳優になれると思ったのよ」

中学時代の僕は表情に乏しく、何を言われても大きなリアクションを返したことがない。それでも、このときばかりは「はあっ?」と聞き返した。


サワコ先生とは、演劇部退部を巡って衝突した。中二の頃だ。

「途中退部は許されない」と言う彼女に「無理強いはできないはずだ」と、口答えをした。

結果的に退部は許されたのだが、なにかが僕の癇に障った。その後も、サワコ先生が教鞭をとる『生物』の授業は仏頂面で通した。採点を巡って食ってかかったこともある。

「私はね、医者になるはずだったの。だから歩くのが早いのよ。医者はいつだって急いでいるからね」

だったら医者になればよかったのに、と脳内で毒づいた。


中三になってから、だろうか。美術の授業中に、僕は彫刻刀で指を切った。

薬指から手頸まで血が流れて、女子生徒が悲鳴をあげた。技術の教師は糸鋸で指ごと失くしたのだから、比べれば大したこともないだろう。ひとり、保健室に向かう間も慌てていなかった。

薄暗い廊下から、陽射しのなかへ。渡り廊下のまんなかで、サワコ先生と出くわす。

「心臓より上に」

「え」

「傷口を、心臓より上にあげて」

明瞭で、凛とした声だった。先生は僕の二の腕を強く掴み、そのまま保健室まで付き添った。


そして卒業後、先生と僕は一昨年まで文通を続けた。

生意気なクソガキだった僕に、彼女は途切れることなく手紙をくれた。

最後に受け取った手紙は、『夫を喪くした悲しみが癒えない』というような文面だった。夫については、それまでにも何度か認められている。

『医者だった夫は治らないとわかっていたから、緩和だけを望みました。あしかがフラワーパークの大藤棚の下を、ふたりで歩いたのが忘れられません』

僕の憶測に過ぎないのだが…… 医者を目指していたとき、ふたりは出会ったのだろう。医者になるには時間と金がかかる。教師の給料で、彼女は夫を支えたのではないか。それで、自らの夢を諦めたのではないか。

そういう愛とかが、僕には欠落している。その点で先生は幸せだとも言える。それだけに喪失は大きいだろう。

考えだすと、どう返信したものか解らなくなった。

そうして、文通は途絶えてしまった。

僕は、慰めることが不得意だ。ほんとうにヘタクソだ。いま思えば、ジュンにもそういうところがあった。

一軍から嫌がらせを受けていたときのこと。

中庭掃除でドクダミを抜いていると、小学校から一緒だったシンドウが耳打ちをしてきた。

「イジメのこと知ってる。庇ってやれなくて、ごめんな。庇ったら、次は僕がやられるから」

そのときも「はあっ?」と聞き返した。

個と群の冷戦だと思っていた。一時期はヒートアップしたものの、『オガワ襲撃事件』以来は互いに暴力を振るっていない。机に『バカ』やら『死ね』やらと落書きされた程度で、それがイジメだとは認識していなかった。

僕は、イジメに遭っているのか?

当事者の主観とは異なり、周囲からすれば現前の事実だったようだ。


いずれにせよ、ジュンも事態を察知していた。これまでの僕の書き方だと、彼が無関心だったように捉えられたかもしれない。

実際には一度、ジュンは僕を救おうとした。

下校のとき、駅に向かっていた僕に一冊の本をよこした。

「これ、読んでみて。気持ちが楽になると思う」

ぼんやりと表紙を眺める僕にくいっと本を押しつけ、彼は、駅とは逆の方向へ駆けていった。

そのことは、僕をがっかりさせた。

本ではなく、ジュンの言葉、ジュンとの時間が欲しかった。


僕と同じように、彼は慰め下手だったのだろう。

真剣に僕を案じたからこそ、彼なりの最大限の救済をした。地獄に糸を垂らしたように、『その本』が僕の救いになると心から信じていたのだ。

だからこそ、余計に寂しくなった。


酒井です。特設ページとかって、必要なんでしょうか。

以前、前もってリストにして書いていると言い切ったのですが、予定通りにいきませんでした。生き物が書いているわけだから、文章も生き物なんですね。

実は、なんの指示も貰わずに〆切もなく自由に書くのは、これが初めてなんです。ご容赦を。

彫刻刀の傷は、いまも薬指に残っています。