小説《underworld is rainy》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅰ…世界の果ての恋愛小説④/オイディプス
...underworld is rainy
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅰ
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
フエは言ったに違いない。死体を発見したときに、動転して、私たちはお互いの体を洗いあった。何の意味があったのかわからない。そして私たちはとても激しく愛し合った。とても、とても、とても、激しく。
だって、動転していたのだもの。まるで、死にあがなおうとするかのように、…本能的に?
…ねぇ、わかるでしょ?それに、彼は男なのよ。
男なの。…わかる?
そんな。媚びいるような眼差しで、ときに呆然とて嘆息するような意図的な眼差しをさえ私に投げつけて見せながら。
密室殺人のトリックを暴いてやるのは簡単だった。
家屋正面の観音開きの巨大な木製のドアは、床に鉄心を通して鍵をかけるだけのものだったので、そんなもの、バイクの鍵を通しただけで外からすぐに開けられた。築の40年以上経過して、古びてかすかなゆがみさえ曝しているのだから。閉めるときは、何度か揺らしてやればいい。長い時間の経過のうちに、変形して丸まってしまったパーツは、すぐに鉄心を下に落としてしまうのだった。
…でしょ?
警官に、私はそれを実演して見せて、肩をすくめた。フエは誰かを詰めるように、何かを、なんども、警官に罵って見せるのだった。…知らないよ、俺は。
俺に言われても、どうしようもないよ。
警官はそう言っているに違いない。
「死んだりした?」
「誰が?」
「知り合い、誰か、…」
「死にはしない。死にはしないけど、…死んだね。」
「死んだの?何人?」
「知り合いの、友達のね、その、知り合いの、…何回かあったことあるよ、私も。」
「俺は?」
「ない。」
「何人?」
「三人。」
「三人も。」
「その人は一人よ。その、お連れの奥さんとか、そういう、…もう年だったからね」
「三人?」
「もっとよ。」
「もっと?」
「全部で。」
笑う。母親は笑って、もう大変よ、といい、捨て置かれた自分の存在を主張しなければ気がすまないフエは、何を言っているのかわからないはずの会話の間中、スマホのカメラの前で、私の胸に身を預けてじゃれついた。
いっぱいの、これみよがしに女じみさせた媚態を撒き散らして。来年30歳になるフエは、まるで、十代のやっと後半に差し掛かった少女のように、指先を戯れ、表情を遊ばせ、私は倦んでいた。
そうした媚態のすべてに。母親は、隠しながらも嫉妬さえしたのだろうか?あるいは、そんな事実など忘れて仕舞ったとでも?
妻をまだ、日本に連れて行ったことがなかった。その煩雑な手続きと、そもそもが私にとって、もはやそこは生まれてきただけの外国に過ぎないような気がしてさえいた。そのために。かならずしも、そこを憎んでいるわけでもさえもなくて。
懐かしさを感じるのは、インターネットで、あるいはベトナムのテレビ・ニュースで、日本を襲った災害のニュースに、たまに、というよりは頻繁に触れたときだった。
あの、災害にまみれた自然がただ、懐かしかった。大陸は、山脈も平野も何も、すべてが大きく、はるかに、果てしなく、スケールが大きいのだが、それは牙を抜かれた家畜にすぎなかった。たやすく人間に飼いならされてしまう、殆ど人間を殺すことない、それは善良な飼い犬のようにしか見えなかった。
そこの自然災害で人が死ぬなら、まぐれ当たりか、あるいは人間たちのせいにすぎなくさえ想われた。
そこに、留保無き暴力の、破壊の大きさはない。
島ごと破壊されてもおかしくないような、辛辣さは、熾烈さはない。
美しさ、と。そう呼んでしまうほかない、理解不能な尊厳はない。
フエの父親の葬儀には、殆ど親族が来なかった。わずかばかりの、そして短時間しか滞在しない客たちにだけ、彼は見送られた。まるで、親族の間でのノイズのような存在だった彼を、真摯に弔うものは、殆どだれもいなかった。
フエも人付き合いがいいほうではなくて、私は外国人に過ぎないから、彼らにとって、葬儀の礼を尽くすべき暇など、もとから存在していないのだった。
警察をいなしてしまってから、始末に困っていた血まみれのTシャツを、午前1時。もうだれも慰問客がいなくなって、町も寝静まってしまったのをいいことに、フエはバイクから取り出した。それは、血と言うよりは、布地自体の臭気を篭らせていた。
あるいは、長い間になじませられたフエ自身の体臭に。しわだらけでピンク色のそれをかたまらせた黒い血痕が、みじめに穢していた。
いたずらじみた笑い声を、フエは立てた。
私は床に座り込んで、胡坐をかいていた。ただ、にぶい眠気がまぶたに合った。
…ねぇ、と。フエの眼差しの呼び声に、無言のまま微笑んでやり、そして、フエはビニールごと、棺に安置された遺体の下に、押し込んだ。
白い、埋め尽くした花々を掻き分けて。
黄色にまで至らない黄色から、桃色にまで至らない桃色、それら、さまざまな、結局は白いというほかない色彩のグラデーションを曝した花々は、そして男の肥満した身体は、たやすく女の寝巻きなど押しつぶし、覆い隠してしまう。
あとは、色彩の白の、それになじまない汚点のような肌色の散乱が、棺の中に拡がるにすぎない。
…ねぇ、と。突き出したフエの尻が言う。
どう?
私は彼女の戯れのために、彼女が振り向き見る前に、声を立てて笑ってやった。
土地問題で、親族は離散状態だった。
基本的には貨幣価値の低い国で、土地にだけ日本の関東並みの価格がついているのだから、それもこれも当たり前なのかも知れなかった。日本における、物価も高ければ給料も高く、貨幣価値も高くて土地も高いのとは、まるで意味が違う。
貧しい日本人がこの国では、ガリヴァーの法則に従うお金持ちになれて仕舞う貨幣価値の差異の中で、土地だけが同じレヴェルにまでなって仕舞えば、何が起こってもおかしくはなかった。
研ぎ澄まされた細い剣に剣をあてるような、そんな痛々しささえ、感じられた。
もともとは、フエの母親が相続したものだった。ホーチミン市、旧名サイゴンに十年近くも住んでいたフエは、殆ど、そこに帰って来はしなかった。母親の妹と、その娘の家族だけが、実質そこに暮らしていた。
彼らは不意に所有権を主張し始めて、家族は争いになった。
フエの側で、そこに住んでいたのは彼女の父親だけだった。彼女の弟は、ハノイで仕事をしていたから。性格的に、弟は争いごとに向くタイプではなくて、臆病なくせに勝気な、吠える小型犬のような彼女の父は、でたらめに吠えついてばかりで、用を成さなかった。フエは、一人で立ち回るしかない。
裁判には勝った。そしてそれは、追い出された妹方の家族全員のみならず、母方の家族の大半を敵に回すことになった。
結局のところ、私たちがでたらめな証拠隠滅を図りえたのも、その込み入った事情のおかげに過ぎなかった。咬みつきもせずに、遠くから吠え掛かってばかりの父親は、一番に、明確な憎しみの対象になっているに違いなかった。彼らのうちの誰かが、何かの拍子に想い余って殺して仕舞ったに違いない。誰もがそう想っているはずだった。
事実はともかくとして。
もっとも、娘も、口を開けば父とはけんかばかりしていた。会話とは罵りあい以外ではなかった。あの男が、彼女をひっぱたいたのは一度や二度ではなかった。
いつかは、そうなる必然に過ぎなかったかもしれない。フエと、その父が、仲良くいたわりあったのは、ただ、娘が…Hoa、…花、まだ男とも女ともはっきりしないただの赤ちゃんに過ぎないその、無意味に生き生きとした生命体が死んで仕舞ったときだけだった。
それは、あきらかな、破綻。
体中のやわらかい匂いたつ皮膚が真っ赤な充血を曝して、奇怪なほどに呼吸がおかしい。眼差しには明らかな発狂があった。体内は、確実に壊れ、壊滅しかかり、そしてすべてが狂乱して仕舞っていた。
狂った生命体。どうしようもなく、破綻した、その。
体温は、もはや人体のそれではなかった。人体そのもの発狂が、明らかにその肉体そのものを急激に破壊しようとしていた。その破壊のスピードを緩和させるためだけに、体中にぶち込まれたチューブは薬剤を身体にねじ込んだ。
たかが、一匹の蚊のキスが、そして、触れ合ったその小さなヴィルスが、その、体積にすれば何倍なのか、その桁さえわからない巨大なものを破壊していた。
…死、が。
ただ、死んだ、と、その破壊の完了の最終通告がなされたときに、フエは数十秒間声もなく泣き、そしてやがて、息を継いだ瞬間に、彼女の喉から怒号のような泣き声が発された。
私は耳を塞ぐことさえできずに、彼女のためにだけ泣いた。
その生命が破壊されて仕舞う前まで、その、発病から3日の間、悪くなっていくばかりのその様態に、やがて来るに違いない死を覚悟した…あるいは、覚悟も何もなく、自覚した?いずれにしても認識したままに、私はその寝付けない夜には、彼女の避け難い死の予感に涙した。
目を潤ませて、何度も。
目の前のそれは、なにか、他人事のような冷たさがあった。触れ得ることさえできない、どうしようもない冷たさが。
なぜ、自分がフエのように泣くことができないのか、自分を破壊してやりたくなるような、しかし、自虐的なわけではなくて、あくまでも他人を制裁してやりたがっているに等しい、冷静な暴力性に、私は駆られた。
自分で、他人を破壊するように、自分を破壊できない身体的な不自由さの必然が、その暴力の具現を妨げたに過ぎなかった。
いずれにしても、私は悲しかった。
娘の死を確認した夜に、家につれて帰って、部屋の、子供用のベッドに寝かせる。
寝床に着く。
フエは泣きやまない。私は泣きやんでいた。
疲れていた。私の全身を、容赦のない疲労が、もはや燃えるように包んでいた。
その、内側から。眠れなかった。
室内が匂った。フエの、そして、移り香の、そして、亡き子の残し香の、それら、生物の匂いの群れが。
フエは、泣きながら私にしがみついた。医者に言われたとおりに、彼女は精神安定剤か何かでも、注射してもらうべきだった。あるいは、処方してもらうか。
フエは、ベトナムの薬物は危険だから嫌だ、と、それを拒否した。死にたがってはいないことを、むしろ私は奇妙にさえ想った。
いずれにしても、Hoaの容赦ない死体にくらべるまでもなく、そして、比べてみてさえも、明らかに、フエのみならず、私の身体にしたところで、無慈悲なまでに生きていた。それは否定できなかった。
彼女の涙が私の胸元を濡らした。それは、ただ、温度そのものとしてしか感じられなかった。
彼女の体温が、執拗に感じられた。
生き生きとした、その生命体の、健康な発熱。自分の、同じような発熱を、自分では感じられないことが、むしろ自分において、自分とは常に、すでに死んだものに他ならないかのような、そんな実感を感じさせた。
あるいは、死んだものとしてしか、自分を体験することなどできないとでも言うのだろうか?…そんな実感など、何の意味もないことだ。
フエの絡みつく腕が、私を放さなかった。彼女の頭を撫ぜてやり、背中を撫ぜてやるうちに、それははっきりとした愛撫になって、私たちは愛し合った。
憑かれた様に腰を振って、そして、フエは逆らわなかった。むしろ、下からしがみついて、そして、終ることのできない行為が、ただ、時間を浪費しながら、フエの発熱する身体の上で続いた。
まるで、でこぼこして骨ばったばかりで、肉をぶよつかせさえしたそれら二つを、無理な体勢を取らせてむりやり二つ重ねて乗っけて無様にバランスを取らせようとしたような、その、いつもの、重なった愛の、愛を確認して一つになろうとする試み。
肉体的な私の疲労が、やがて、それを途中やめにして仕舞った。
…獣のような?
飢えたような。
もっと、もっと、…と。
激しく。
求め合って、ただ。
まさに。
壊れて仕舞いそうなくらいに。
家畜のような?そんな、そして、そんなくだらない中断。
フエは泣きやまない。
一方的に、他人の体温を感じる。肌を合わせた他人のそれの、それを。体臭をさえ。同じように立っているはずの、自分のそれをではなくて。あくまでも、他人のそれだけを。汗に塗れる。自分の汗をも含めて。
ならば、流れ出した汗はもはや自分のものでさえないということなのだろうか?
あるいは、涙も。
流れ出した、そして明確に、その触感とその温度さえ感じて仕舞うのならば、その限りにおいて、まさに、涙は他人のものだったのだろうか?
あるいは。
フエは、他人の涙におぼれた。
私は、フエの目が流す他人の涙を指先ですくってやった。
誰の涙だったのだろう?それは。
涙には、結局のところ、所有のあるいは所属の人称さえも与えられていない、いわば世界の外の実在だったのだろうか?
触れたのだった。
涙に。