現代アートとは、何か 小崎哲哉著
現在読書中です。
文章難易度としては低く読みやすい。
現代アートってよく分からない。しかし、理解してみたい。という人にオススメ。
私自身が、自分自身現代アートという枠組みに属しながらも、それがなんなのか知らない。
言ってしまえば、美術・芸術が好きで、それを切り札として生きてきた、小中高と学生時代の同級生からも芸術分野といえば、”私”と言われる。しかしながら、美術史を嗜んでいるか、著名作家を諳んじられるか、作品を前にした時、きちんと向き合えているのか、正直、分からない。確かに一般と比べ、自分の趣向は尖っているし、数は見ているのだが、きちんとした形で学んだり、語ったことがない。もっと深く知りたいからと手に取った。一読した限りで理解度は二、三割といったところだ。
気になった一部を抜粋する。
最初は「新しい視覚・感覚の追求」。感覚的なインパクトの追求である。現代アートのみならず、美術史の大部分はこれによって前進してきた。ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」の完璧な構図。ミケランジェロ「シ___(中略)___を作品化したのも、まずは何よりも「ほかの誰もやっていないこと」「いまだかつて存在したことのないもの」「観る者に衝撃を与えるもの」を自らの手で生み出そうという強い欲望があってのことだったに違いない。伝統の保存と継承が最重要視される分野もあるけれど、文学、音楽、映画、演劇、ダンス、建築、デザインなど、他多くの表現領域においても、これはかなりの程度同様であるだろう。未来派やダダなど、「反芸術」を標榜した(そして、すぐに「芸術」に回収された)運動も、既存の芸術を否定するという点で「いまだかつて存在したことのないもの」であり、新しい視線、感覚を追求するものだと言える。
___作者自身に「見せるとは(聴かせるとは、感じさせるとは)何か」を、そして観客に「見るとは(聴くとは、感じるとは)何か」を問う。その問いは、必然的に「つくるとは(アートとは)何か」を、さらには「知覚しながら生きる人間とは何か」という問いをも含むことになるだろう。____例えばクレーは、著書『造形思考』に「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることにある。」「あらゆる生成の根源をなすのは、運動である。」といった含蓄ある言葉を記している。
インスタレーションの時代
ポリス・グロイスが芸術と芸術家の変貌について綴った文章を、ここでもう一度引く。
芸術家は、理想の芸術生産者から、理想の芸術鑑賞者へと変貌した。(…)今日の芸術家はもはや生産しない、あるいは少なくとも生産することが一番重要なのではなく、芸術家は選別し、比較し、断片化し、接合し、特定のものとをコンテキストのなかへ入れ、ほかのものを除外するのである。言い換えれば、今日の芸術家は、鑑賞者の批判的・批評的な眼差し、分析的な眼差しを我がものとする。
___グロイスは、続けて以下のように述べる。
芸術家がほかの鑑賞者と異なるのは、自分が行う鑑賞の戦略を明確化し、他の者が追体験できるようにする点である。それには当然一つの場所が必要になる。それがインスタレーションの場であって、今日のインスタレーションはアートシーンにおいてかくも際だった役割を果たすようになっているが、それはまさにこの手段が、生産者から鑑賞者へ転身すると同時に鑑賞する眼差しの戦略を露出するための、最上のオブジェや絵画を鑑賞者の眼差しに提供するのではなく、むしろその眼差しそのものを形成することである。
この文章は実は、イリヤ(&エミヤ)・カバコフという特定のアーティストの手に成るインスタレーションを論じたものである。と同時に、インスタレーション一般、今日的な展示一般、さらには現代アート全般に適用しうる議論である。
カバコフは、「トータル・インスタレーション」という概念を唱えた巨匠で、1995年に、フランクフルトで行った講義録に基づいた『〈トータル〉インスタレーションについて』という書物を刊行している。『イリヤ・カバコフの芸術』の編集者、沼野充義は、この書物でカバコフが自らのインスタレーションを「トータル」と呼ぶ理由を「展示空間のすべてが全面的に変容し、観客も通常の町や美術館の状態から締め出されて絵、観客のために作者が構築した特別な世界の中に入っていく」からと要約している。
私は、このような作風、興味方針なので、これらの文に興味を持ったが、とっかかりとなる文章は、読む人によって異なるだろう。
思想哲学、数々の美術家のアートシーン、発表作に触れながら、「現代アートとは何か」について展開してゆく。著名作家のため、知っている知っている、となる部分もあれば、作家や作品は知っているが解説書は読んだことがないもの、説明を読んで引っかかる、など、多くのきっかけを内包している。一度では読み足らず、もう一度、と読みたくなります。