閉館する津市体育館の最大のミステリー…前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント
986年4月29日三重県津市体育館で前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアントの一戦が行われた。 当時の前田は1984年3月に新日本プロレスを離脱し旧UWFに移籍、後に佐山聡や藤原喜明、木戸修、高田延彦、山崎一夫も旧UWFに移籍し、従来のプロレスとは一線を画し「格闘プロレス」でカルト的な人気を呼ぶも、経営に行き詰まり活動を停止、前田は対立した佐山を除いた選手らと共に1985年12月に業務提携という形で長州力ら維新軍団の大量離脱で日本人選手不足となっていた新日本プロレスにUターンするも、前田らが出戻りだったことでの残留組との感情的な対立、スタイル的な違いもあり、また2月に藤原喜明を破ったアントニオ猪木に対して前田がキックを浴びせ「猪木だったら何をしてもいいのか!」と猪木批判したことで、新日本とUWFの間に確執が生まれていた。
一方アンドレは全米侵攻を始めたWWF(WWE)を主戦場にしており、新日本とWWFの関係は1985年に解消されていたが、アンドレは新日本に参戦を続け、マシン軍団を解散していた若松市政をマネージャーにして、マスクを被ってジャイアント・マシーンに変身することがあったが、急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始めたこともあり、レスラーとしてはピークが過ぎつつあった。
アンドレは4月11日から開幕する「ビッグファイターシリーズ」に気心が知れているディック・マードック、マスクド・スーパースターと共に参戦、アンドレは5月1日に行われる両国国技館での最終戦ではマネージャーだった若松と組み猪木&上田馬之介との試合が組まれ、前田はUWF軍と共に藤波辰己を中心とする新日本軍との5vs5シングル勝ち抜き戦が組まれていた、その両国大会2日前の津大会に前田vsアンドレがマッチメークされたが、カードが決まったのは大会の2日前でTV中継も入り、プロモーターの要請もあって組まれた試合だった。
カードが組まれたときは前田も1983年の第1回IWGPでアンドレと対戦していたこともあって、自分がどれだけ成長したかを知るのに格好のチャンスでもあり、外国人選手からクレームがあったキックを正面から受け止めてくれたアンドレに対して前田も絶大な信頼を寄せていた。だが大会当日になると、メインレフェリーだったミスター高橋から「気をつけろよ。アンドレが今日、お前をつぶすって言ってるぞ」と忠告を受け、レフェリーも新日本のレフェリーではなく、アンドレの個人マネージャーであるフレンチ・バーナードが裁くことを告げる。しかし前田はプロレスの試合でそんなことをするわけがなく、またアンドレに対する信頼もあって仕掛けてくるわけがないと楽観していた。
そして試合となったが序盤は膠着から始まり、前田がグラウンド狙いにタックルを仕掛けるが、タックルを潰したアンドレが圧し掛かり、目潰しやチョークで攻める。いつものアンドレと違うと感じた前田は試合の軌道修正を狙ってショルダータックルを狙うが、アンドレはセオリー通りにタックルで返さずナックルを浴びせ、フルネルソンで捕らえたアンドレは全圧力をかけて絞り上げ、身体の柔軟性に定評があった前田は何とかロープに逃れるがフレンチは前田のロープブレイクを認めない。
そこでセコンドの藤原がアンドレが仕掛けてきたと察知して「構わねえ、殺せ!」と激を飛ばす、前田も本来なら試合の軌道修正を図らなければいけないレフェリーが軌道を修正せず、アンドレのであるセコンドの若松も叫ぶだけ、猪木を始めとする日本人選手だけでなくや外国人選手らも試合を眺めているにもかかわらず、乱入して試合を壊そうとしない状況を見て、罠にハメられたと察知する。 やっと逃れた前田はタックルからアンドレの上を奪い腕十字を狙うが、リーチの長いアンドレの腕を極めることは出来ず、アンドレはノド輪で逃れ、スタンディングになって前田がドロップキックを放つも、アンドレは払い落とす。膠着してから前田は片足タックルからのアキレス腱固めで捕獲、アンドレは一旦ロープに逃れるが、前田は再び片足タックルからアキレス腱固めで捕らえるとヒールホールドへ移行、ヒールホールドで膝に大ダメージを負ったアンドレは蹴って逃れようとするが前田は逃さない。
アンドレがロープブレークに逃れ、セコンドの若松が「前田逃げるな!」と叫ぶ中で両者は膠着、館内も一旦は沸くも再び静まり返る。前田が巧みに距離を取りながら、アンドレの足の外と内側にローキックを放っていく、アンドレは腕を大きく開いて構えるも足を引きずり出す。そこで猪木がやっとリングサイドに現れるが、完全に足に来ていたアンドレはロープにもたれかかる。猪木はリングに上がって臨戦態勢を取るが、フレンチは猪木に下がるように命じて猪木は一旦リングから降りる。前田は膝だけでなく腿にもローキックを浴びせていくが、館内は試合が単調になったことで罵声が飛び交いだすも、前田は膝だけでなく腿にもローキックを放ち、膝への関節蹴りも放っていく。アンドレは若松に声をかけるが手を大きく広げるだけ、藤原喜明からの指示を受けた前田はアンドレを何度も倒して足関節を奪うもアンドレはロープに逃れ、起き上がろうとしない、そこで猪木がリングインするとUWF勢もリングに上がって睨み合いとなったところで試合終了のゴングが鳴り藤波も駆けつける。釈然としない前田に猪木が駆け寄って再試合を支持するが、結局ゴングは鳴らされず無効試合となった。
試合後に前田は猪木や現場責任者である坂口征二に詰め寄るも「これはどういうことですか」。しかし猪木と坂口は「自分は知らなかった」と口を濁すだけ、真相は闇から闇へと葬られ、テレビの録画からもカットされたが、真相が闇に葬られたことで前田の評判を高める結果となっていった。
前田vsアンドレの真相はいろんな説が出て、前田は坂口の仕業と疑り、坂口は全面否定するなど、未だ真相は明らかになっていない。ただ気になることはあるとすればアンドレがなぜ前田に対して仕掛ける気になったのか?アンドレの死去の前年である1992年10月にプライベートを明かさなかったアンドレが日本のマスコミにプライベートを公開、アンドレの自宅を訪問した井上譲二氏はアンドレの同居人で当時のレフェリーだったフレンチに試合の核心部分に触れ、フレンチは「アンドレ自身の意志」「本気でマエダをつぶす気はなかった。自分の強さだけをアピールしようとするマエダをちょっとこらしめただけ」と答えていたという。そして前田vsアンドレ戦が行われた同じ年の11月に前田との一騎打ちが組まれていたブルーザー・ブロディは「シュートを売りにしているヤツなんだって、それだったらオレが本当のシュートってヤツを教えてやろうか」と答えていた。結局ブロディは来日せず新日本から追放されたことで前田戦は幻となったが、アンドレも前田に「オレが本当のシュートってヤツを教えてやろうか?」と考えていたのだろうか…これもアンドレが亡くなったことで永遠の謎となった
そして2017年9月、大きなミステリーを呼んだ前田vsアンドレが行われた津市体育館も閉館になることで幕を閉じようとしている…