高山善廣が帝王への扉を開くきっかけになった川田利明のUインター参戦
4日、怪我からのリハビリを続ける高山善廣の状況が公式に発表され、新日本プロレスを始め各団体が高山を助けるために基金を呼びかけている。高山はNOAHから退団後はプロレス各団体だけでなく、MMAにも参戦することで幅広く活躍し、いつの間にかプロレス界の"帝王"の異名を取るようになった。
高山が大きくその高山が帝王としての扉を開くきっかけとなったのは、まもなく迎えることになるが1996年9月11日に行われた、UWFインターナショナルで行われた川田利明戦だった。
1996年のUWFインターナショナルは前年度開催された新日本プロレスとの全面対抗戦から他団体との交流を活発化させ、新日本だけでなくWAR、バトラーツ、みちのくプロレス、大日本プロレス、東京プロレスとの交流を開始させたが、高田延彦が武藤敬司に敗れUインターの最強のイメージが崩壊、高田は再戦では武藤を破ったものの、最初の敗戦が尾を引いたことで、Uインターファンが離れてしまい、団体としては下り坂となっていた。
厳しい状況のなかでUインターは8月17日、9月11日と2ヶ月に渡って神宮球場大会を開催、団体としては起死回生を狙ったが、8月17日に行われた神宮球場大会では高田vs当時ゴールデンカップスで大ブレイクした安生洋二をメインにしたものの、観客動員的には厳しい結果に終わった。
失敗は許されない9月11日では高田延彦vs天龍源一郎をメイン、新日本プロレスから橋本真也、佐々木健介を借りたものの、新日本との対抗戦は既にピークを過ぎてインパクトに欠け、チケットも売れず伸び悩んでいた。
そこでジャイアント馬場が当時の週刊プロレスの編集長だったターザン山本氏を通じてUインター取締役の鈴木健氏に接触を求めてきた。Uインターにとって全日本ははトップ外国人選手だったゲーリー・オブライトが全日本に移籍した際に「引き抜きだ!」と批判したことで敷居の高い団体だったが、その敷居の高い団体である全日本からUインターに接近してきたのだ。
90年代の全日本プロレスは四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)を中心とした四天王プロレス時代を迎え、他団体との交流はせず鎖国することで独自路線を敷いていたが、新日本がUインターとの全面対抗戦を行い、またメンバーが固定していることによるマンネリ化も懸念してことから、鎖国から開国に転じようとしていた。 馬場がUインターに接触した理由は三沢の相手として高田はまだまだ商品価値があるのと、Uインターは新日本と提携していたものの、新日本リードの関係にUインター側が内心不満を抱いていると情報を得ていた上で接触を求めてきたのだ。
鈴木健氏は山本氏を間に入れず、一人だけで馬場との交渉に臨み、Uインターのスタイルに合わさられる選手としてスティーブ・ウイリアムスか、元Uインターのオブライトをリクエストしようとしていたが、馬場の口から出たのは「川田か田上じゃダメか?」だった。しかし業界を知らないどころか全日本をリサーチしていなかった鈴木氏は川田と田上の価値をわかっておらず、返事を先送りにして高田に「ゲーリーもスティーブもダメだって。『川田か田上じゃダメ?』って言われちゃったよ。そんなのいらないよね?」と経過を報告すると、高田は「何言ってるの!川田がいいよ!」と叫んだ。高田の一言で川田の価値がわかった鈴木氏は全日本から川田を借りることを決意するが、頭を下げる形での返答は足元を見られると思い「馬場さん、しょうがないから川田でいいや』」と馬場さんに返事をすると、馬場さんからGOサインが出て川田の参戦が決定となった。
そして川田のUWFインター参戦が発表されると、全日本は開国を宣言したとはいえ、他団体に四天王の一人である川田が派遣されるインパクトが強かったのもあって、あまり売れていなかったUインター神宮大会のチケットが一気に売れ出し、用意されていた前売り券が全て完売、鈴木氏は「あ~ホントに川田でチケットが売れるんだ」と痛感させられたという。
川田を迎え撃ったのは当時ゴールデンカップスの一員として活躍していた高山が抜擢され、試合も川田が前年度にオブライトと渡り合ったことでUスタイルにも順応できることを見せつけ、高山のキックやジャーマンも全て受けきった川田はジャンピングハイキックで勝利となったが、この試合で敗れたものの高山の評価は一気に上がり、高山がプロレス界の帝王への扉を開くきっかけになった。 しかし神宮大会が成功に終わってもUインターの経営は好転せず打ち上げ花火に終わり、12月27日に団体は解散。Uインターはキングダムへ移行するも、高山は垣原賢人と共に全日本を主戦場にするが、馬場さんの王道哲学を学んだ高山はプロレス界の帝王の座を駆け昇っていった。
(参考資料「俺たちのプロレス vol.4」より)