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我を遂に癩の踊の輪に投ず

2024.10.06 12:36

https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=cdi_medicalonline_journals_cu3lepro_2000_006901_032_0056_0056698405&context=PC&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&adaptor=Primo%20Central&tab=Everything&query=any,contains,%E5%B0%8F%E5%B7%9D%20%E6%84%9B%E9%81%93&offset=0 【ハンセン病と小川正子・太田正雄・平畑静塔】より

日本ハンセン病学会

注記

3人とも医師であり, 文学の才に秀でた人物であった. 小川正子(1902-1943)は救癩の聖医と称えられ, 1984年山梨県春日居町の名誉市民第一号として小川正子記念館が設立された. 「夫と妻が親とその子が生き別る悲しき病世になからしめ」別れさせたのは, 病ではなく強制隔離収容政策ではなかったかとの批判がある. 恩師光田健輔が文化勲章の栄に浴した同じ年に, ハンセン病に対する偏見故に, 一家九人の心中事件が山梨県で起こっている. 記念館に「生きていく日に愛と正義の十字路に立てば必ず愛の道に就け」の碑がある. その正義は, 科学のない感情移入(Einfuelung ohne Wissensshaft)ではなかったか. 大田正雄(1885-1945)は, 皮膚科の医師として, ハンセン病の感染力の強くないことを見抜いていた. 「小島の春」の映画評に「癩根絶の最上策は其化学的治療にある. そして其事は不可能では無い. 『小島の春』をして早く此『感傷時代』の最後の記念作品たらしめなければならない. …此事はひたすらに『小島の春』を読み, 又その動画を観て心を傷ましむる見物のみならず, 亦敬虔な長い勤務に身を痛めて病の床に臥す其作者にも告げたい. ここに新しい道がある. 其開拓は困難ではあるが, 感傷主義に萎えた心が, 其企画によって再び限りない勇気を得るであろう. そのような熱烈な魂が, また癩根絶の正道の上にも必要であるのである」と. 彼の予言どおり, 1943年プロミン(Miracle at Carville)が発見された. 平畑静塔(1905-1997)は, 精神科医であり, 俳人でもあった. 「我を遂に癩の踊の輪に投ず」自注に日く:昭和22年作大阪女子医専俳句連と長島愛生園に一泊旅行のとき. 数名の女子学生が飛び出してその踊りの輪に加わった. 私の目の前に来た学生達に, 『先生もおいで!』と言われて, 私も思いきってその輪に投じ, 見様見真似に何周かを踊り続けた. 何か孤独の感があったが, 次第にそれも忘れ, 我を忘れて人々と踊りめぐったのであった. その夜は院内の宿舎で泊めてもらったが, 一同亢奮してなかなか寝つけず, 私自身もまんじりともせず夜を明かしたが, 朝は決して疲れず, すがすがしい朝の空気を満喫した. まさに実景その通り, 嘘も誇張も何もないありのまま. 感激はあとから湧いたようである. 平畑静塔には, 精神科医としての感情移入と, たった一夜とはいえ共生(Mitleben)があった. 大田正雄には科学洞察と感情移入があった. 小川正子には長い共生の生活があり, その作品にみられるとおり感情移入もあった. 欠けていたのは, 科学的洞察ではなかったろうか.

http://yasojikomachi.seesaa.net/article/449573937.html 【文部省唱歌「茶摘み」の遊び。「八十八夜」の俳句】より

(前略)

では、「八十八夜」の俳句をどうぞ。

霜なくて曇る八十八夜かな 正岡子規      清め塩尖る八十八夜かな  矢野百合子

葉蘭叢ぬれて八十八夜かな  山尾玉藻   水張つて八十八夜を待つ田かな  山本ミツ子

縫代に針うつ八十八夜かな 栗栖恵通子   蒔くべきを蒔きて八十八夜かな  片山由美子

八十八夜富士嶺つぎつぎ雲吐ける 浜口高子  八十八夜茶山に蝶の手毬かな   平畑静塔

手に重し八十八夜の花鋏 峰幸子       望郷の目覚む八十八夜かな 村越化石

村越化石という人は静岡県藤枝市の出身で、16歳のときハンセン病と診断され、勉学を諦めて、療養に専念します。

その苦しい中で出会った俳句に生きがいを見出し、盲目になってなお、句作を続け、多数の賞を受けました。

不治の病、業病と言われ、偏見と差別の中で、本名も名乗らず、一切の縁を切って、ひっそりと暮らす「魂の俳人」にとって、「八十八夜」と聞けば、どんなにか故郷が親兄弟が懐かしかったことでしょうか。

https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/kyodomuse/11/15/1445916405262.html 【村越化石 (俳人) 〈1922-2014〉】より

(写真)「望郷に目覚む八十八夜かな」玉露の里にある村越化石句碑(藤枝市岡部町新舟)

村越化石(本名・村越英彦)は、大正11年(1922)12月17日、静岡県志太郡朝比奈村(現・藤枝市)新舟(にゅうぶね)に生まれました。16歳の時、ハンセン病罹患が発覚し、旧制志太中(現・藤枝東高校)を中退、離郷します。昭和16年、群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)に妻と共に入園。死と隣り合わせの時期を過ごし、戦後、特効薬プロミンにより病が完治した後も、後遺症を抱えることになった化石の心のよりどころとなったのが俳句でした。

昭和18年、ホトトギス同人の本田一杉(ほんだいっさん)に指導を仰ぎ、俳誌『鴫野(しぎの)』に入会、「栗の花句会」(現・高原俳句会)の浅香甲陽(あさかこうよう)の影響を受けます。昭和24年、大野林火(おおのりんか)の『冬雁』に感銘を受け、林火に手紙を送り「濱」に入会。以降、林火の教えを自身の魂に刻み続け、光を失った眼、自由のきかない身体にもかかわらず、魂の俳句を詠み続けました。その句作からいつしか「魂の俳人」と呼ばれるようになりました。平成14年、60年ぶりに故郷岡部町新舟に帰郷。実家に近い「玉露の里」に建てられた村越化石句碑除幕式に立ち会いました。

化石の師・林火は、ハンセン病文学の三本柱として、「小説の北条民雄(ほうじょうたみお)、短歌の明石海人(あかしかいじん)、俳句の村越化石」をあげました。

「北条民雄や明石海人がハンセン氏病の悲惨さ、怖しさの中に命を終わったのに対し、化石にはその後の長い歳月があった。化石の特色はそこにある。いえば、民雄・海人の知らなかった無菌になってからの生きざまである」(大野林火「松虫草」より)

群馬県草津の大自然の中で己の生を見つめながら句作に努めた化石は、蛇笏(だこつ)賞、詩歌文学館賞、山本健吉賞、紫綬褒章など多くの栄誉を受けました。

”魂の俳人”村越化石『心眼~俳人村越化石、魂を句に託して』ダイジェスト版をご覧いただけます!