バッシング
バッシング
2005年11月20日 有楽町朝日ホールにて(第6回東京フィルメックス)
(2005年:日本:82分:監督 小林政広)
コンペティション作品*最優秀作品賞受賞*
この映画は、個人的にとても思い入れがありました。
低予算、短期間で作られた小さな小さな映画です。
しかし、この映画が見つめているものは、人間の悪意というものです。そして人間が組織する社会というものの悪意。形の見えない悪意。
ですから、この映画は、気持ちいい、楽しい、娯楽作品ではありません。
なんでこんなもの見せられるのだろうと不快に思い、文句を言うと思います。愚痴りながらも今の自分に満足している多くの日本人は。
すべてはフィクションで実在の人物には関係ありません、と最初大きく出るのですが、これは、「戦争をしているある国」でボランティア活動をしていた若い女性が、武装グループに誘拐され、人質になり、世間を騒がせて、帰国した・・・という設定でこれは過去実在した事件をモデルにしています。
帰国したボランティア女性は大変な非難をあびたそうです。
誘拐された当時から、「そんな所へ英雄気取りでわざわざ行って、日本に、世間に迷惑をかけた馬鹿な若者」と実際私の知っている人はののしって、バッシングして、笑っていました。
この映画では、主人公の有子という女性が、いきなりホテルの部屋の掃除の仕事をクビになる所から始まります。
北海道の小さな町に帰ってきた有子は全国的に騒がれ、有名になり、どこへ行ってもバッシングの対象になります。家の電話には脅迫まがいの嫌がらせが続き、インターネットでも大バッシングの的。小さな町でも誰もが有子の事を知っていて、関わりになることを避けています。
それは、両親の仕事や生活まで響き、父までも仕事をクビになり、自殺。
そのことで、ますますバッシングはひどくなる。コンビニからも追い出され、どこにも行けず家にいるしかなくなる有子。
しかしこの映画が凄いと思うのは、そんな有子を肯定も否定も批判も擁護もしていない所です。美談にも悲劇にもしていません。
有子は、今まで、自分はダメなことばかりだったけれど、ボランティアに行って初めて自分が必要とされていると知った、と継母(大塚寧々)に語ります。一種の現実逃避ともとれます。共同生活が上手く出来なくて、その事を棚に上げてその場から逃げ出したともとれる台詞があります。結局は自分が救われる為のボランティアだった、という正直な気持ち。
バッシングを受ける有子が、ただ、かわいそうという甘い視線はありません。有子を通じて今の日本の社会のある一面を見せている。
そして北海道の街の荒涼とした風景。この風景がまた、このバッシング社会(と今は言えると思います)の荒涼とした心象風景のようで、逆にこれが東京など都会を舞台にしていたら、ありがちな「現代の都会の孤独」に流れて行ったと思います。
しかしこの映画は、有子とその家族に焦点をあてて深く、バッシングされる立場になってしまった苦しみを描きます。
私の仕事はよく「ボランティア」のレッテルを貼られます。
今の日本人の思いつく「ボランティア」って何だろう、と言われる度に思ってきました。金にもならない嫌な事をすすんでやるのがボランティア?でも私はちゃんと給料をもらっている。でもボランティアしてるんだよね~って相変らず言われて、皮肉っぽく、または無邪気に「偉いわね~、でも私には絶対に出来ないわ」と言われる時に受ける奇妙な気持ち、不快感って多分、説明してもわからないと思って黙っています。
この映画でも、有子が今は子供を連れた主婦になった友人に全く同じ事を言われているので、内心、びっくりしました。
最後に有子のとった決断と行動は、このバッシング社会の解決には直接結びつかないと思います。
1人の人間がとった行動がたまたま社会を騒がせ、バッシングの対象になる。それは、いつ自分が、家族が、友人がそういう立場になるかわからない状況に追い込まれているのに実は気がついていない、という指摘をしている部分、本当は目に見えているのに、目をつぶって見ないようにしている部分を映画にした、その勇気を買う訳です。
人は人をいとも簡単に追いつめることができる、そういう暴力を静かに描き出しているのがこの映画の優れた点であり、同時に娯楽映画として配給先が見つからないという現実でもあります。