轟英明さんのインドネシア・レビュー、 第8回 リッポーグループ会長モフタル・リアディの履歴書読み比べ
前回までは三回にわたりインドネシア社会を読み解くキーワードとして怪奇映画やオバケについて語ってきました。今回からは去る3月に出版された論文集『東南アジアのポピュラーカルチャー アイデンティティ・国家・グローバル化』を元にインドネシア及び東南アジアの大衆文化についてより突っ込んだディープな話をするつもりでしたが、急遽予定を変更して、インドネシアを代表する華人財閥リッポー(力宝)グループ会長モフタル・リアディの履歴について簡単なメモを残したいと思います。
本稿執筆のきっかけは、5月発行の本メルマガに日本経済新聞文化欄「私の履歴書」バックナンバーが添付されており、リッポー会長の自伝を日本語で読んだことです。この連載は第三者による公正で客観的な伝記とは違うものの、実に読み応えのある自伝だったと言えるでしょう。伝記作家ではない私には彼の自伝の記述がどこまで正確か検証することはできませんが、「私の履歴書」とは別のソースをいくつか挙げることで、本メルマガ読者に大企業経営者の自伝をどう読み解くべきか、考える材料を提供したいと思います。
「私の履歴書」は全30回の連載でしたが、実はインドネシア語では2年前に既にモフタル・リアディの自伝がインドネシアを代表する高級日刊紙KOMPAS社から出版されています。リッポーグループの傘下にあるMatahari やHypermartのレジ置き場では一時期この自伝が必ず置いてあったので、中身を読んだことがなくても表紙に見覚えのある方は結構いるのではないでしょうか。
Mochtar Riady Otobiografi Manusia Ide
インドネシア語版
英語版 (目次を見る限りインドネシア語版とほぼ同じ内容の模様)
トリビウムアパートにあるJapan Information Center 図書館にも本書は置いてありますので、チカランにお住まいの読者の方は一度手にとってみては如何でしょうか。書棚の一番上にケースつきの豪華版が二冊あります。どうやらリッポー側からの寄贈のようです。
私自身はインドネシア語版を定価よりも安く入手する機会があって購入したものの、ほとんど読んでない積読状態だったのですが、今回「私の履歴書」連載を読むのと同時に改めて最初から本書を読んでみました。幼少期から青年期までのところは非常に読みやすく、極めて平易なインドネシア語だったのが意外で、当然ながら「私の履歴書」とほぼ変わらない文章と内容でした。中盤以降の銀行業の記述はやや専門的な内容も含むものの、文章そのもののは必ずしも難解ではないように感じられました。
よって、インドネシア語が少しでも分かる方は語学の勉強にもなりますので、「私の履歴書」と自伝を交互に読むことをお薦めいたします。とりわけ、日本軍政期、ビル・クリントンの印象、95年の銀行取り付け騒ぎなどの記述においては明らかに表現の相違が見られ、リッポー会長が日本人読者に伝えたいこと或いは伝えたくないことが暗示されており実に興味深く読めるはずです。
以下、連載回の内容に対してインドネシア語版自伝で対応している頁の一覧を作成しました。これから自伝を読まれる方のお役に立てればと思います。連載後半部は単語の拾い読みでどの頁か判断している箇所もあるため、読み落としや間違いについては大目に見ていただければ幸いです。
「私の履歴書」の連載が始まったと聞いて私が一番に気になったのは、1996年に米国で大問題となった民主党への献金スキャンダルと、自身のキリスト教信仰について、どこまで踏み込んで記述するのかという二点でした。ひょっとして全く触れることもなく連載終了するのかなと連載23回目の頃は危惧していたのですが、最終回直前にちゃんと触れていたのはなかなかフェアなことで感心しました。ただ、記述に物足りなさがあるのは自伝という体裁上やむをえないところでしょうか。
米国での民主党献金スキャンダルはアメリカ事情に詳しい人なら聞いたことがあるかもしれませんが、何しろビル・クリントンが大統領二期目を目指して選挙運動をしていた頃、二十年も前の出来事なので、簡単におさらいしますと、ビル・クリントン及び民主党へのリッポーグループという外国企業からの巨額の献金が問題視された事件のことを指します。マスコミの過剰な報道があったにせよ、最終的には違法な献金と認定、リッポー側には選挙運動資金に絡む罰金では過去最高額が課せられ、モフタルの次男ジェームスは2009年まで米国入国を禁じられたと報じられました。この件にジェームズはほとほと懲りたようで、「カネと権力は共に祝福であり呪いであると私は学んだ」と、あるインタビューでは述懐しています。もっとも、このスキャンダルの余波によって当時のアジア系アメリカ人コミュニティは「怪しい外国企業の手先」というレッテルを貼られて相当なショックとダメージを被ったようです。(村上由見子『アジア系アメリカ人』pp.130-139参照)モフタルの自伝も「私の履歴書」も自分本位な回想にとどまっているとのアジア系アメリカ人からの非難があるとすれば、それは正当なように私には思えます。
Nikkei Asian Review の記事
もう一点のキリスト教信仰については、自伝ではほとんど触れてないものの、キリスト教信仰を核とした教育機関の設立と運営に熱心なこと、次男ジェームズが熱心な福音主義者である事実がずっと気になっていました。連載第29回の信仰についての箇所は文字通りの信仰告白で、あれほどの大実業家であり資産家にしてなおキリスト教を信仰することで心の平安を保っている様子がはっきり窺えます。ムスリムが多数派のこの国で、超富裕の華人財閥トップがキリスト教への信仰を赤裸々に語ることは場合によってはリスクは伴うかもしれず、日本経済新聞という日本語媒体ゆえに可能だったのかもしれません。
さて、「私の履歴書」を読み解く補助線として、最後にもうひとつ文献を挙げておきます。インドネシア華人名士録とも言うべき事典『印尼華族名人集 Tokoh-Tokoh Etnis Tionghoa Di Indonesia 』です。前近代から現代まで、インドネシアで著名な華僑・華人の短い履歴をまとめた本で勿論モフタル・リアディの項目もありますが1頁程度の分量です。読んでみて気づいたのは、モフタルの父親がはじめの妻との死別後に後妻を娶ったこと、家具を扱う商人だったとの記述があること。また、ライオンズクラブの会長職にあったことや複数の有名大学で演説をおこなったり著作が自伝の前にも二冊あることにも触れてます。
脱線しますが、この事典は華人といえば富裕な実業家や資産家を思い浮かべる多くの読者の思い込みを修正する、多種多彩な華人たちの経歴がコンパクトにまとまっている素晴らしい内容です。華人名とインドネシア人名、両方での検索が可能なので、この分野に関心のある方は是非探してみてください。
印尼華族名人集
今後ますます発展するリッポーチカランそしてメイカルタには現在の居住者人数以上の日本人が移り住むはずで、その開発を担うリッポーグループ会長の自伝と関連書籍を読んでおくことは、リッポーのビジネスモデルやビジョンを知る上でも有益ではないでしょうか。「私の履歴書」を未読の方に強くおススメする所以です。
この稿を閉じるにあたり、資料を集めるのにご協力いただいた小野俊信さん、そして編集責任者の宮島さんに深く感謝する次第です。有難うございました。
次回は今回取り上げるはずだった論文集『東南アジアのポピュラーカルチャー』の紹介をしたいと思います。それではまた来月!
<参考文献>
Mochtar Riady, Otobiografi Manusia Ide, PT Kompas Media Nusantara, Januari 2016 Drs,Sam Setyautama, 印尼華族名人集 Tokoh-Tokoh Etnis Tionghoa Di Indonesia , KPG,Agustus 2008
村上由見子 『アジア系アメリカ人 アメリカの新しい顔』 中公新書 1997年7月25日発行