この胸いっぱいの愛を
この胸いっぱいの愛を
2005年10月18日 ヴァージンTOHOシネマズ六本木ヒルズにて
(2005年:日本:130分:監督 塩田明彦)
このタイトル、まずいですね。
『世界の中心で愛を、さけぶ』から、もうキャッチコピーにやたら「愛」があふれてしまって、安直な使い方が目立つのに追い打ちをかけるような、『この胸いっぱいの愛を』・・・・
もし、この映画が『カナリア』の塩田明彦監督だと、知らなくてタイトルだけだったら、私は観たい映画のリストからはずしていたでしょう。
タイトルは大事です。それである程度、映画のイメージというものが決まってしまうから。
このタイトルからのイメージだけで、「テレビドラマみたいなベタな恋愛日本映画」って観もしない人からきめつけされるのはとても嫌です。
この映画は観てみると、「過去の自分と対峙する」という映画なんです。
愛といっても、いわゆる男女の恋愛、純愛とはちょっと違う愛情というべきもので、それが、とてもファンタジック。
主人公は、伊藤英明演じるサラリーマンだけれども、他にも同じ飛行機に乗り合わせた、ということで倍賞千恵子、宮藤宮九郎、川地涼のエピソードも平行して描かれます。
つまり4人のそれぞれの過去の違いというものが面白いわけで、恋愛成就、または悲恋といったものがメインではないと私は思います。
子供の頃育った街、門司に帰ってみると、いきなり9歳の自分に出合ってしまう、伊藤英明ですが、その出会い方がなんのてらいもなく、特撮
もなく、装置もなく、本当に自然に出合うという作り方、考えてみると「普通やらない手法」です。
韓国映画『初恋のアルバム~人魚姫のいた島』でも主人公は突然、過去に戻る。それが実に一瞬の鮮やかでシンプルな手法で、あのカメラがパンするだけで過去に戻るということが出来るのは、映画だけだと思いました。
それがこの映画では、カメラはパンすることもない。ただ、昔ここに住んでいたなぁ~と立ち止まると、家の中から過去の自分が出てくるだけです。それで、もう過去、です。
映画というのは、別に台詞で説明しなくても、絵で一瞬で見せる、ということが出来る訳ですから、特撮が当然のようになってきて、すれっからしになっている自分には新鮮でした。
そして、伊藤、宮藤、川地の3人が、これからどうしよう・・・と海辺の桟橋に座り込んで話すシーン。
この桟橋は、固定というより浮かしている桟橋で、ゆらゆらゆれている。
そこで3人が座り込んでゆらゆらしながら、困ったなぁ~どうしよう・・・と話すシーンがとても好きです。
3人の中心になっているのは宮藤宮九郎なんですが、伊藤、川地の顔の向け方が色々で、とても面白い。
死んでしまった人に会う、または、産まれる前の母に会う、過去にやり残したことをする・・・・そういった些細なことのつなぎ方が上手いと思います。
『カナリア』では14歳の少年と少女の未来まで考えた上で、そこまで描かなかった事の続き、みたいなものですね。
もう、愛、愛って愛ばかりさけぶのは、やめましょうよ。