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空想都市一番街

ショパン 幻想即興曲 

2023.09.07 12:46

11月のこと。


拓也のマンションを出ると、悠斗は池袋駅までの道を歩いた。


すっかり夜だが、サンシャイン通りはこれからさらに活気を帯びてくる時間だ。


今日は冷える。悠斗は上着のポケットに手を突っ込んで、吐く息の白さに冬の寒さを感じていた。


ふと、何かに違和感を感じた。

それが何か、悠斗は一瞬分からず立ち止まった。


今、「何か」とすれ違ったのだ。


急いで振り向くと、人混みに紛れ、その「何か」はなかなか見つけられない。


悠斗は心臓が波打った。


そんなはずはない。


走って探したけれど、もうそれはどこかへ行ってしまった。

そんなはずはないんだ。


黒髪に、鋭い目。


マスクをしていたけど、あれはさっき拓也の家で感じたあれと一緒だった。


涼太だ。


今日悠斗は拓也の家で、拓也の弟の涼太の写真や動画を見せてもらったのだ。


あの時感じた、心に深く刺さるような痺れる感じと同じだった。


いやいや、まさか。涼太はもう故人だってのに。


悠斗は何かの間違いだと首を振って、また駅に向かった。遺体が見つかっていないということと、演奏している姿があんまり印象に残ったから、敏感になっていただけだろう。


それにしても、拓也さんの弟はかっこよかったな。

そんなことを思いながら西武線に乗った。




「タク、落ち着いて聞けよ」


馴染みの、サンシャイン通りの一つ裏通りにあるバーのマスターから電話がかかってきたのは夜11時過ぎだった。

「どうした?そんな焦って」


拓也はシャワーから出てビールを一杯やっていた。


「おまえさ、俺のこと頭がおかしいって思うかもしれないけど、俺今日見たんだよ」


「なにを?」


「涼太だよ」


拓也は一瞬マスターの言ってる意味が分からなくてぽかんとしていた。


「なに言ってんの?あいつは死んだんだぞ」


「知ってるよ。だけどな、同じなんだよ、あいつと。俺が見間違えるはずがねえ。マスクしてたけど、一瞬外したんだ。その時の顔…あいつなんだよ。ソックリさんとかじゃねぇ。顔に傷跡があったけど、あれは涼太だ。」


拓也は持っていたビールの缶を落とした。


「おい、聞こえてるか?さっきサンシャイン通りで見失っちまった。まだどっかにいるはずだ。」


涼太?


拓也は上着もろくに着ずにマンションを飛び出した。



寒さを感じている余裕なんて無かった。拓也はサンシャイン通りを行く人々をくまなく見渡し、走り、裏通りもくまなく走り回った。


(ちくしょう。やっぱりマスターの見間違えか?)


拓也は肩で息をしながら裏路地で壁を叩いた。いるわけなんかないんだ。


その時、ふと通りかかった、カーキ色のコートを着た男が拓也の前で止まった。


拓也は顔を上げると、目を見開いて男を見つめた。


そんな。


「お兄さん、大丈夫?具合悪いの?」


男は近づいてきて拓也の顔を覗き、マスクを取った。


「りょう…」

「すごい息上がってるじゃん。しかも寒そう。俺とあったかいところ行く?」


拓也は何も答えることができなかった。目の前にいるのは紛れもなく死んだ弟の、涼太だ。


だけど、涼太の方はまるで拓也のことを知らないかのように話ししてくる。左頬には縦に深い傷の跡。


しかも、男娼をしているようだ。


「いや…その、おまえ、名前は?」


やっとの事で声を絞り出した。


「名前なんて必要?んー、じゃあ、タクヤ。」


タクヤ?


「なんちゃって。俺名前無いんだよね。覚えてないんだ。だからみんなに勝手につけてもらってる。お兄さんは何がいい?」


「覚えてないっておまえ…記憶無いの?俺のこと覚えて無いの?」


涼太は拓也の問いに不思議そうな顔をして、ますます拓也の顔を覗き込んできた。


「悪いけど覚えてないや。前にヤッたっけ?」


「いやそうじゃなくて、いつから記憶無いんだよ」


「いつからって、そんなのどうでもよくない?…まあ、6年くらい前から昔の記憶は全部無いよ。それよりさ、俺を買ってよ。寒いし。お兄さんいい男じゃん。いいっしょ?」


なんてことだ。

拓也は目の前の現実を頭で追いかけるだけで精一杯だった。


記憶喪失。しかもそれは事故が起きたあたりからだ。

どうすればいいのか。

拓也は答えられずに涼太を見つめていた。


「なんだよ。その気無いのね。じゃあ俺行くわ。」


「ちょ、ちょっと待った!」


行きかけた涼太は足を止めて振り返った。


「おまえを買う」


拓也は自分が何を言ってるのか訳がわからなかった。


「そうこなくっちゃ」

涼太はぺろりと舌舐めずりをした。


「俺んちに来ないか?」


「えー?悪いけど俺、家に行くのはお断りなんだよね。前に殺されかけてトラウマ。近くにちゃんとしたホテルあるから行こ。そこなら顔見知りだから。」


涼太はいたずらっぽく笑って、拓也の手を引いて歩き出した。


「俺さ、おまえのこと知ってるんだ。話しないか?」


「へえ?どんな?」


「おまえ、俺の弟なんだよ。覚えて無いと思うけど」


涼太は振り返って笑った。


「みんなそう言うよ。俺のこと知ってるって。俺の親だとか、弟だとか、俺を独り占めするのにみんな頑張ってるよね。でもダメだよ。俺は誰のものでもないから」


「ちがっ…」


気づくと涼太が使ってると言うホテルに着いた。


拓也は逡巡した。だけどここでこいつを逃したらもう見つからないかもしれない。


金だけ渡して、中でゆっくり話すことにした。きっと話くらいは聞いてくれるだろう。


そしてもしかしたら記憶が戻るかもしれない。


「3階。エレベーター来たよ」

涼太に手を引かれてエレベーターに乗った。


ドアが閉まると、涼太はグイと拓也を壁に押し付け、キスをしてきた。

「んっ…!」


絡みつくようにキスをしてくる。


「…お兄さん、やっぱいい男だね。俺すっごい興奮しちゃってる。ほら触って」


拓也の手を自分のそこへ導き、ジーンズの上から触らせた。


「ね?」

「……っ!」

弟のそんな姿に、拓也はどうしていいか分からなかった。しかも、拓也の知らない、大人になった涼太。


部屋の鍵を開けると、涼太は拓也の手を引いて中に入った。


「お兄さんかっこいいから、俺もう我慢できないや。こんなことあんまり無いんだけどなぁ。あ、リップサービスじゃないよ」


涼太はコートとセーターを脱ぐと、拓也のパーカーとTシャツを脱がせてきた。


「ちょっと待て、俺、おまえと話したいことあるんだ。金は払うから、ヤるの無しで話しよう」


「え?…んー、ダメだよ。さっきも言ったでしょ。俺お兄さんとヤりたいの。話なら聞くから、ね。俺がこんなこと言うの珍しいんだよ、マジで」


拓也のTシャツを捲り上げて涼太は乳首にキスをしてくる。


「……っ、」

「感じてるんだ。もっと気持ちよくしてあげる…」


「っだー!ストップ!!」


拓也は涼太の両肩を掴んで引き離した。


「分かった、ヤるからその前に話しさせてくれ!頼む!」


「えー?なんだよ、白けるなあ。」


涼太は拓也の腕を払うとふてくされたようにベッドに寝転んだ。


「もうそんなに言うならいいよ、話せば?」


涼太はベッドで頬杖をついて、どうぞお好きに、といった感じに拓也を見た。


拓也はホッとしてTシャツの乱れを直すと、部屋の椅子に腰掛けた。


「お前のことを話すよ。お前が覚えていない過去のこと」


涼太はふぅん、と適当に返事をした。


「群馬県の、山ん中だ。お前はそこで生まれ育った。俺の6歳下の弟。名前は橋沼涼太。」


涼太は適当に前髪をいじりながらうんうんとうなづいている。


「お前は3歳の時に両親を亡くして、俺の婆さんとオヤジに育てられた。俺とお前はいとこなんだけど、その時から兄弟として育ったんだよ。

オヤジたちは俺らを分け隔てなく育てた。お前は昔から音楽が好きで、ピアノを習ってた」


ふんふん、と聞いていた涼太が一瞬動きを止めた。ピアノ、という言葉を聞いた時だ。


「お前が17歳の時に、俺はお前とバンドを始めたんだよ。覚えてないか?」


うーん、と涼太は首を傾げた。


「音楽なんてやったことないもん」


「やってるんだよ。お前があんまりすげえから、メジャーのオファーまで来た。けどそんな最中、お前は実家の近くの峠でバイク事故を起こして、その勢いでダム湖に落ちて死んだんだ。

バイクだけで死体は上がらなかったけど、いくら探しても待ってもお前は見つからなくて、俺たちはお前が死んだんだって思った。」


涼太は黙っていた。


「…今まで聴いた中で一番面白い話だね。お兄さん名前はなんて言うの?」


「橋沼拓也」


「タクヤ?」


涼太はびっくりしたように目を開いた。


「へぇー偶然。俺、名前を聞かれたらとりあえずタクヤって答えてたんだ。なんかしっくり来ててさ」


「それは俺の名前を頭のどっかで覚えてたんじゃないのか?俺は嘘を言ってないぜ。お前の顔の傷、前はなかった。きっと事故の時ついたんだ。」


涼太は黙った。なにかを考えているようだった。


「俺本当に何にも思い出せないんだよね。けどお兄さんが言ってるのが本当なら、面白いね。それに、ピアノか」


ふうん、と涼太はなにか思うことがある様子だった。


「俺んちにはお前の写真も動画もある。見てほしい。最初っからそうしたかったのに、お前が家が嫌だって言うから」


「そりゃあ仕方ないよ。さっきも言ったけど、家行ったら殺されかけたことあるから怖いもん。でもお兄さんはなんとなく、そういうことする人じゃない気がしてきた。その写真見たい。でもそれより」


拓也はヤりたいと言い出すのかと構えていた。話をしてケムに巻いてしまおうと思っていたからだ。


だけど違った。


涼太は前を向いたまま静かに言った。


「ピアノ弾きたい」