川瀬亜衣
踵は踏まれていなかった。
目やにで乳白色になった視界に、左前足の人差し指と親指で目頭をぐりぐりとこねた。
遠巻きに眺めた今朝方の惨事は、珍しいものではない。こちらにはモノがないのだから、こういう事はいつでも起こり得た。でも、慣れたものには到底ならないようで、今も胃袋が渦巻いている。空腹が長引いて気持ち悪くなった時と近いな、と思ったところで、彼女は自分の呑気さに仄かに毒気抜かれ、重かった腰を上げた。
彼女は、なくなってしまった自分の右前足の分を補うかのように、左前足を滑らかに動かして、吐き気の気分を洗い流そうと歯を磨いた。しかし、どれほどブラシを擦り付けても、今朝のアレが目に焼き付いてしまっていて剥がれない。腕の疲れと比例して、気分をよくしようという気持ちも凪いで、彼女は持っていかれてしまったいくつかの靴を思い出していた。
友人の弟は、どうやらとても綺麗に靴をはく(彼は靴を履く上、踵を踏まないなんて、今どき神経質だと言っていたが)。彼女は猫が直立するみたいに、器用に二足で立ち上がり、自分の背丈では届きづらい位置に取り付けられている古い公衆電話を、慌てて手に取った。(この公衆電話、昔の人間用のもので、いまの人間には取り付け位置が高すぎる。) 彼女は三本足であるのに疲れるとこうして二足歩行することもあった。しかも残っている左前足をまるで手のごとく使えたので、電話機も使いやすくよく電話をかけていた。今朝はこんなだし、靴は気になる。やはり今朝も友人に電話をかけようと思ったのだ。
受話器をとると通話中の保留音が鳴り(しかし、彼女がその友人に電話するとだいたい繋がらないのだった)、敢えなく今日も直接家まで赴くことになりそうであると悟った。
友人の同居のお母さまには、また二さん来たの?という目線をいただくことだろう。