マリといた夏
マリといた夏
My Beautiful Girl, Mari
2005年8月9日 渋谷シアターイメージフォーラムにて
(2002年:韓国:80分:監督 イ・ソンガン)
寒い冬の雪の降る都会で、青年ナムは幼なじみのジュノに久しぶりに出会う。
12歳の漁村で暮らしていた少年ナムの密かな思い出。
学校の気の強い女の子、気の弱い男の子、人なつっこい猫のヨー、ちょっとぎくしゃくした母との関係。父が亡くなってから、何かと面倒を見てくれる漁師のギョンミン、文房具屋のおじさんは蠅たたきをうちわにしながら、いたずらする子供たちを蠅たたきで追っかける。夜は白い蚊帳を吊って寝る。
その文房具屋のビー玉の箱の中にみつけた、小さな人影が映るビー玉。ナムは夢の中で、古い灯台の上から、海を泳いでいて・・・不思議の国の不思議な世界を垣間見る。
先日観た『ロボッツ』は、完璧に近い程の凝りに凝った機械の世界のめまぐるしい冒険を、まるでテープを早回ししているようにきゅるきゅるきゅると全編通して見せてくれますが、この韓国のアニメは何もかも正反対。
まったりとした風景の連続、海、山、自然、夏休み、お風呂屋さん、灯台、不思議の世界への入り方、そこには理路整然とした理由理屈はないのです。現実と不思議の世界に境界線がない。雰囲気としては『となりのトトロ』に近いものがあります。
だから、子供がきゃっきゃっきゃっと楽しむアニメというより、大人が子供時代を振り返る、最後の台詞にあるようにもう「心の中にしまいこんだもの」をひとつひとつ取り出してみせるようなあえてレコードの回転を遅くしたようなテンポ。
この現実と不思議の世界の境界線をあえて言うなら、水。宇宙飛行士が無重力状態を作る為に水中で訓練する・・・でしょう。
ナムの不思議の国への入り口は、泳いでいるような浮遊。この水から浮遊へ・・・がとても自然ながら毎回、行き方は違うのです。
夢なのだろうけれども、孤独な少年の魂は水を泳いでいる内に浮遊して空を飛ぶ。そこで出会う不思議な動物(見た目は子犬でも、妙に巨大)に乗った少女・・・マリという名前は、故あってのマリではなく、ナムが無意識に「マリ」と呼ぶ・・・マリはただただナムを見つめるだけです。
マリは、孤独な少年の魂をただ黙って浮遊しながら、見つめているもう一人の自分かもしれないし、少年の心に芽生え始めた恋愛の感情の象徴かもしれません。また、自分から離れそうな不安を持っている母なのかもしれません。
そこを多弁に語らず、ナムはマリのいる世界に憧れるのではなく、受け入れる。ナムは決してマリの世界に逃避しようとしない。
マリにすがろうともしない、ただ、マリがいる・・・それだけでいい・・・やっぱりそれって「遠くから姿を見ているだけでときめく」っていう恋愛の一歩手前の繊細な気持ちなんだろうなぁと思います。
冒頭、雪が降りしきる都会の空をカモメが飛んで、鳥瞰のようなカメラの流れからして、浮遊しているのです。
もう、都会で仕事をしているナムの元へ浮遊するもの、そして子供時代の大切な友人、ジュノが現れる。冬から夏へ・・・少年時代の思い出は夏だけであり、大人になった少年の世界は冬だけなんです。
絵はパステル調を基本にしているようでも、細かいところが『ロボッツ』並みに精巧に描かれています。街を行く車、食事の鍋の中身、机の上のペン立て・・・・しかしマリの世界は、どこか奥行きのない閉鎖的な世界です。
マリって何なんだろうな・・・そしてナムが心の中にしまっておくもの、をきちんと認識したときに、また不思議の世界は広がっていくのです。
青年ナムの声は、イ・ビョンホン・・・ということで、平日ながら映画館はイ・ビョンホン・ファンらしき中高年の女性で一杯。
でも、ほとんどは少年時代ですが、最初のナムの気持ちと、最後のナムの気持ちは微妙に違っている・・・思い出す・・・それはとても大事な事なのでしょう。イ・ビョンホンの声を聞きに来た人がほとんどかもしれませんが、しんみりとしたいい雰囲気になるのでした。
また母を慕う漁師のアン・ソンギの声は、完全な大人の声です。
スタッフは、プロデューサーが『火山高』『殺人の追憶』のチャ・スンジュと『箪笥』『大統領の理髪師』のチェ・ジェウォン。音楽は『スキャンダル』のイ・ビョンウ・・・と映画界の有名人が結集してこのような、ゆるやかで静かでしっかりとした精神世界のアニメを作るってこと、凄いことです。