軍事境界線(DMZ)に行ってきた
みなさんこんばんは、キョウトジンです。
今日はかなり真面目な記事です。
本日8月22日、僕は朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)側の国土に足を踏み入れました。
写真は境界線上で撮った写真です。境界線上に作られたこの本会議場の建物内のみ、見学者が北朝鮮側に境界を越えることを許されています。
この会議室では韓国側の兵士が警備にあたっています。北朝鮮側の兵士との見分け方は意外と簡単で、韓国側はサングラスをかけており、北朝鮮側はかけていません。
ガイドさんによると、この兵士は交代で2時間連続して警備にあたっており、その間はずっとこの姿勢です。両手を下ろした状態ではなく常に腰に当てているのは、何か緊急な戦闘が起こった場合でも即時に対応できるようにするためです。
またこの写真にも見えるように、外にいる兵士は半分体を北朝鮮側に出している状態です。これも緊急時にどちらにも動けるようにするためだそうです。
韓国側は韓国人男性の義務である2年間の兵役についている若者ですが、この勤務地のみ希望制だそうで、幾度の面接を経て、優秀な兵士のみが選ばれ、警備にあたるそうです。逆に北朝鮮側は家柄の良い兵士が選ばれるようで、あまり体格などは重視されないようです。
それは脱走を抑制するための一つの策だそうですが、去年11月には脱走兵が出ており、どこまで抑制できているのかは疑問が残ります。
世界一危険な場所の一つ
数年前にワシントンのアーリントン国立墓地を訪れた時も、同じように衛兵が警備しているのを見ましたが、ここの緊張感はその比ではありません。
共同警備区域(JSA)を訪れる前に、1枚の誓約書にサインすることを求められました。
その内容としては、いかなる事件・事変を予期することはできないので、安全を保証することはできないというものでした。要するに死んでも責任は取れません、ということです。
そして、注意事項としては北朝鮮側に挑発行為を行なったとして攻撃の理由にされないよう、会議室内は録音されているのでいかなる言語でも北朝鮮に関することは話してはいけないほか、共同警備区域内全域で指をさす・手を振る・ピースなどの行為は禁止されています。
もう一つ興味深かったのが、韓国側に向けて写真を撮ってはいけないと言われたことです。おそらく韓国側の設備が写真として残るのを防ぐためと思われますが、真意のほどはわかりません。
JSA, DMZ, MDL
タイトルは「軍事境界線(DMZ)」としていますが、正確には軍事境界線=DMZではありません。
スケールをこのニュースで見たことのある場所から、朝鮮半島全体に広げてみましょう。そして、時間を少し巻き戻してみます。
皆さんご存知の通り、第二次世界大戦終戦後、ポツダム宣言によって大日本帝国は解体、海外の植民権も全て手放しました。
そして、米ソ対立を背景として1948年8月15日に李承晩により大韓民国、同年9月9日に金日成により北朝鮮が建国され、北緯38度線に沿って事実上の国境が引かれました。
この時の国境が38度線に沿っていることから、今でも38度が強調されていますが、実際のところは西は37度6分、東は38度4分あたりのところを通っています。
なぜなら、現在の国境は1950年から52年まで続いた朝鮮戦争(韓国では朝鮮戦争というと朝鮮王朝時代の戦争となるため、韓国戦争と呼ばれる)のあとの停戦協定だからです。
朝鮮戦争のあと引かれた線、これが軍事境界線(MDL, Military Demarcation Line)です。そして、この線から南北にそれぞれ2km、合わせて幅4kmのエリアが非武装中立地帯(DMZ, Demilitalized Zone)となります。
今年の4月に板門店宣言が出されたものの、朝鮮戦争終結には至っていないという特殊な状況から、はっきりとした国境を覆うように非武装地帯が設定されているのです。
そしてそのDMZの中でもっとも重要なのが約800m四方の共同警備区域(JSA)と呼ばれる、僕が今日訪れた場所です。なぜもっとも重要かというと、軍事境界線上に建物が建てられている唯一の場所であるからです。地域名から板門店(パンムンジョム)としても知られます。
上の写真は実際に南北間の協議が行われる場所で、境界線上に乗っています。今はこのエリア内でも正確に境界線が決められ、南がわに韓国の、北側に北朝鮮の建物がありますが、1976年まではこのエリア内は互いの建物が入り乱れており、兵士達は自由に行き来することができていました。
しかし、1976年のポプラ事件により今のような状態になってしまうのです。
ポプラ事件
1976年までは韓国と北朝鮮のテントが混じっており、一つの韓国のテントが三方を北朝鮮のテントに囲まれ、一方は別の韓国のテントが見えるはずが、視界を遮るほど成長したポプラの木のせいで、完全に孤立した状態になっていました。
安全上の理由から韓国側はこの木の剪定を行うことを何度も通告していたのですが、北朝鮮は金日成が直接植えたこの木を剪定することは認めていませんでした。
そして1976年8月16日に北朝鮮側の許可を認める前に、韓国側の兵士達が剪定に向かいました。そこに北朝鮮側の兵士達が現れ、剪定用に用意していた斧などを奪って襲撃し、米軍兵士2人が死亡しました。
その後韓国側は激しく抗議し、北朝鮮側への警告なしでそのポプラの木を伐採しました。武力衝突は回避されましたが、停戦以降もっとも緊張が走った瞬間の一つだったでしょう。
この事件をきっかけにそれぞれのキャンプは南側と北側に分かれ、それから現在に至るまで同じ状況が続いています。
ここまでが、かなりざっくりとした歴史の話です。ここからは僕の感想を書きたいと思います。
ハーフとして見た板門店
僕は日本人と韓国人とのハーフです。片方の祖父母が第二次世界大戦中に日本にやってきたため、僕は在日3世ということになります。
このことを僕が聞かされたのは小学校高学年の頃だったでしょうか。僕は日本人として生まれ、朝鮮学校ではなく地元の公立小学校に通っていたのでそれまで全く知りませんでした。
両親もある程度物事がわかってきたと見て、言ってくれたのだと思いますし、僕もそこまで驚くことなく受け入れることができました。顔を見たことはないものの、多くの親戚が今も北側にいると聞かされました。
ですが、韓国語が一切わからないほか、韓国に一度も行ったことのない僕にとっては、その時そこまで重要なことではありませんでした。ただ、親戚の人が小さい頃在日韓国人であることをよく思わない人から嫌なことをされたということをきき、気をつけようと思ったぐらいです。
今もそういった方がおられることは承知してはいますが、こうやって公の場で言うことにあまり躊躇はありません。
高校生、大学生と成長していくにつれ、自分のルーツと言うものに興味があるのは必然的なものです。10歳の頃に比べ知識も増えました。そして、今海外の大学で1年学んだあと、北朝鮮側に足を踏み入れ、「平和」という言葉の重みを実感しています。
小学生の頃修学旅行で広島に行きました。平和学習ということで多くの場所を回りましたが、思春期に差し掛かった僕は何事も斜めに見ていました。なぜ過去に執着するのかと。もっと具体的な解決法を考えていくのが平和学習なのではないのかと。
過去を振り返っても感情的になるだけで、何もいいことはないと。
ですが、今それが間違っていたのだと確信しています。過去を見つめ、何が起こったのかを当事者意識を持って自分の目で確かめることは次の一歩を踏み出すため、そこまではいかないにしてもより良い理解をもたらしてくれることだと感じています。
今日の経験に関して言えば、時間が短かったのもありますが、軍事境界線を越えた時、僕は特に何も感じませんでした。ただ部屋を片方から片方へ移動しただけです。同じ民族の間にある線を僕はあまり意識しなかったようです。
今ソウルに戻ってきて思うのが、この経験で南北統一に対する希望、期待が大きくなったということです。JSAで何も感じなかったのに、今Google Mapを見ると線が引かれている。この異常さに気づくにはやはりその場所にいかないとダメだなと感じました。
朝鮮戦争は今でも続く紛争の一つです。この戦争だけでなく、世界中で起きている紛争に対し、人々がより深い心の底からの理解を示し、解決に向かうことを祈っています。
長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございました。
キョウトジン
[参考資料]
国連軍による北朝鮮兵亡命の映像 - 時事通信映像センター, Youtube