永田が渦中に巻き込まれた2003年大晦日の興行戦争⓶なぜ永田は人柱になる決心をしたのか?
日本テレビのバックアップを得た「INOKI BOM-BA-YE 2003」はミルコ・クロコップvs高山善廣をメインカードとして発表するだけでなく、猪木自身もエメリヤーエンコ・ヒョードルの出場とジョシュ・バーネットvsセーム・シュルトを発表する。川又氏もミルコ、ヒョードル、シュルト、だけでなくアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラも引き抜けば、PRIDEやフジテレビに勝てると踏んでいた。ところがヒョードルもシュルトも当時はPRIDEを主戦場にしている選手だったことから、榊原氏が「ヒョードルとは来年10月まで独占契約している、DSEの許可無しではPRIDE以外のイベントに出場できない。やっていることの次元が低過ぎる。人のものを横取りしている」と非難、契約書も公開してヒョードル、シュルト両選手共DSEと独占契約していると主張し、引き抜き闘争は泥沼化していく。
その最中に高山と対戦する予定だったミルコが突然欠場を発表する。表向きは負傷欠場とされたが、川又グループでも仲間割れが起き、仲間割れした反川又派がミルコ本人と直接会談して、川又氏から引き離しにかかった。また川又氏もミルコのマネージャーを通じてミルコと交渉していたが、そのマネージャーとはミルコと代理人契約をしていたわけでなく、ただのマネージャーに過ぎなかった。この頃になると格闘家の取り巻きや友人と称する人物が正規の代理人の称して格闘団体と交渉することが横行していたことから、ミルコのマネージャーもその類の人間だったのかもしれない。川又氏はそのマネージャーをミルコの代理人と思い込んで交渉し、ミルコvs高山を発表したが、自分の知らないところで勝手にカードが発表されたことでミルコが怒り、試合をキャンセルしたというのが定説になっているという。高山もミルコとの対戦を前提にしていた契約だったため、代役との対戦を拒否して出場をキャンセル。目玉カードを失い、ミルコ、ヒョードル、シュルトの主力3選手がすることを前提に川又氏と契約していていた日本テレビもこの事態を憂慮、緊急役員会議を招集し、決行か中止か、また最悪の場合は代替番組まで検討され、マスコミも「INOKI BOM-BA-YE 2003中止か?」という記事まで掲載されてしまった。
緊急事態に倍賞鉄夫氏、上井文彦氏らとモンゴルの異種格闘技大会を視察していた猪木が帰国、永田も会見が行われる予定で呼び出されていた。この頃の新日本プロレスは90年代を支えた橋本真也、武藤敬司が退団し、K-1、PRIDEなどの格闘技ブームに押されて人気は低落、そこでオーナーだった猪木が格闘プロレス路線を推進し、猪木がK-1、PRIDEの双方に関わっていたこともあって、双方のイベントに新日本のレスラーが借り出され、K-1や総合ルールで対戦させられた。新日本は深夜枠で放送されていたのに対し、格闘技はゴールデンで放送され、新日本の存在をゴールデンタイムで大きくアピールするチャンスだと思って出場させたが、結果を出せず逆に「プロレスこそ最強の格闘技」と自負していた新日本の看板を失墜させてしまい、永田もその一人でIWGPヘビー級王者として2002年の「Dynemite!」でミルコと対戦したが、僅か21秒で敗れ、「プロレス幻想を打ち砕いた」、「プロレス凋落の戦犯」「IWGP王座を返上しろ!」と批判の的にされた。しかし猪木は撤退するどころかますます格闘プロレス路線にのめり込んでいった。
この頃の永田は11月下旬にK-1と通じている上井氏から「K-1 Dynamaite!」でピーター・アーツ戦を打診されていたが、ミルコ戦での苦い思いもあったことから、格闘技への挑戦は避けていた。結局アーツ自身の負傷で試合自体は消滅となったが、今度は「INOKI BOM-BA-YE」からヒョードル戦を打診された。猪木はヒョードルの相手には中邑真輔を考えていたが、中邑は「Dynamaite!」でアレクセイ・イグナショフとのMMAでの対戦が決まっており、ヒョードルの対戦相手はリングス時代にヒョードルに勝っている高阪剛か永田に候補が絞られ、ヒョードルは高阪よりビックネームである永田を選び、猪木事務所を通じて永田に打診、永田は乗り気になれなかったが、猪木事務所側から「会長(猪木)を助けると思って頼みます」と頭を下げられ、猪木の名前を出された永田は断ることが出来なかった。
会見では猪木が出席の下でヒョードルvs永田が発表されるはずだったが、猪木と永田は会見に出席せず、川又氏がミルコとヒョードルが出場するか否かの現状報告の留まったが、さすがに肩透かしを食らった永田は上井氏からヒョードルの参戦が難航していると告げられると「ホント、いい加減にしてください!もう出なくていいんですね!」と怒る。実はヒョードルだけでなく、川又グループが頼りにしていた吉田秀彦もDSEと独占契約を結び、猪木側と目されていた小川直也までも2004年からDSEが旗揚げするプロレスイベント「ハッスル」に参加することを決めて、DSE側に取り込まれてしまい、川又グループだけでなく猪木も追い詰められてしまっていた。
永田が怒っていることを知った猪木は永田と緊急会談し、永田は「オレはリング上では命を投げ出す覚悟はありますけど、リング外のゴタゴタに巻きこまれるのは御免ですよ」と最悪の場合出場しない旨を伝えるが、開催まで時間もなく追い詰められていた猪木も譲れず永田を必死で説得する。そこで猪木が「永田、考えさせる時間はねえんだよ!頼む!」と頭を下げた。さすがの永田も猪木自ら頭を下げられたことで、猪木の置かれている現状を理解し、"猪木さんの顔を潰すわけにはいかない、恥をかかせるわけには行かない"と出場することを決意、永田は「やります!」と返答すると、猪木は「よし!」と闘魂ビンタを入れ気合を入れたが、このときの永田は人柱になる覚悟を決めたという。
しかし永田の出場が決まったのにも関わらず、相手は決定していなかった。永田も最初はアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの対戦が決まったと告げられ、マスコミにも発表されるが、倍賞氏と川又氏から「ノゲイラではなくミルコに勝っているマイケル・マクドナルドに変更して欲しい」と告げられ話が一転する。「INOKI BOM-BA-YE」側はPRIDEからの選手の引き抜きを諦め、一転して和解を申し入れており、ヒョードルかノゲイラの貸し出しを求めていたが、榊原氏も虫のいい話に良い顔どころか、川又氏は信用できないとして交渉は難航していた。この頃には保釈された石井氏を通じてK-1とも和解してマクドナルド借りることになっており、DSEとの交渉がこじれた場合はマクドナルドと永田を対戦させるつもりだった。さすがの永田も対戦相手が一転二転する状況に苛立ちを募らせるが、DSE側が「猪木祭参戦は1試合だけ」「二重契約は破棄し、来年2月以降はDSE専属でPRIDEで戦う」という条件付きでヒョードル、シュルトの貸し出しをすることで合意に達し、永田の相手はヒョードルに決定したが、大晦日まであと2日という状況での決定だった。
大会当日となったが、今度は藤田和之の相手が前日にドタキャンされる事態も発生、急遽イマム・メイフィールドという選手にオファーをかけて事なきを得るも、さすがの猪木も連日のドタバタ続きでバックステージでは疲れきった表情を浮かべていたが、マスコミの前に立つと笑顔となっていつもの猪木に戻っていた。そして永田vsヒョードルは、ヒョードルは永田に付け入る隙を与えず僅か72秒で左フックから打撃の連打を浴びてTKO負け、僅か2日間の調整期間が与えられなかった永田にしてみれば、これが限界だった。しかし大会前や最中にもドタバタが続き、年越しイベントでも、猪木の「108つビンタ」の際に大勢の観客がリングに殺到する騒ぎになり、危険を感じた猪木が観客に蹴りと張り手をかますなど、最後までドタバタが続いた。
結局、TV局を巻き込んだ興行戦争はPRIDEvsINOKI BOM-BA-YEの泥沼を良いことに、着実の準備を進め、ボブ・サップvs曙という一般受けするカードを用意したK-1が平均視聴率19.5%を獲得することで大勝利を収め、対するPRIDEは12.2%とまずまずの結果を残すも、「INOKI BOM-BA-YE」は5.1%と大惨敗、当初は放映権料も8億円を受け取るはずだった川又氏も、大惨敗を受けて3年契約が破棄されるだけでなく、放映権料も6億円に減額され、新団体計画も頓挫するどころか、大損害を被った川又氏は選手へのファイトマネーやイベント運営の下請け会社などに費用を支払わないまま海外へ逃げてしまい、日本テレビも格闘技中継から撤退してしまった。K-1が川又グループと和解したのは「INOKI BOM-BA-YE」が惨敗すると、同じ日本テレビ系列で放送していた「K-1 JAPAN」にも大きく影響が出るという懸念もあったからだったが、不安は的中してしまい、日テレはK-1中継からも手を引いてしまった。また「INOKI BOM-BA-YE」に大きく関わった猪木も格闘技界での地位も一気に失墜させ、格闘技界から撤退を余儀なくされてしまうだけでなく、猪木だけでなく藤田のギャラまでも未払いとなったことで猪木事務所も大損害をこうむる。永田も未払いを受けた1人でだったが、ユークス体制に変わってから契約更改の際に「INOKI BOM-BA-YE」のギャラの精算を求め、猪木さえもギャラを受け取っていないことで、新日本側は永田の要求を渋るも、当時役員だった菅林直樹氏だけが話に応じて、新日本は川又氏に対して訴訟を起こし、川又氏は出頭しなかったため、新日本が勝訴、分割ながらもギャラは支払われ未払いは辛うじて免れた。猪木が新日本を離脱しIGF旗揚げに動いていた際には誰も勧誘はしなかったとされるが、裏では猪木に追随したスタッフらは永田を勧誘していた。だが誘った人間が「INOKI BOM-BA-YE」のギャラ精算を渋った人間であったこともあり、また猪木から直接誘われたわけでなかったこともあって、ギャラ精算話にも応じてくれた菅林氏の方が信頼できると判断して断り新日本に留まった。永田にしても猪木の側近たちに振り回されるのはもう勘弁してほしいと、猪木に対する義理も果たしたいう考えもあったのかもしれない。
永田は後年、金沢克彦氏に「自ら足を踏み入れて散ったって感じだと思ってますよ。ただ、自分はそれで絶対に終わらない。俺、プロレスの試合に関しては自分で自信を持ってますから、総合格闘技に足を踏み入れたことで、新しいプロレスの感性みたいなものを知ったと思うし。もともとプロレスラー永田裕志を高めるために、何かを得ることを目的に出たわけですから、じゃあ逆に、俺が勝ったことで、それで新日本が上がったといえばそうとも思えないんです、あの時代、ファンは横道にそれていくプロレスが嫌だったんじゃないかって。一時期、格闘家とかポツンポツンと新日本に上がってきて、そこそこの試合をしていた。それってレスラー側の力量ですよ。その典型が橋本vs小川戦でしょう。橋本さんがいかに偉大だったということですよ。橋本真也の力量があってあれだけの試合になった。それは『小川は天才』って猪木さんは言ったけど、それは間違いだと思う。橋本戦以外は、いつも不完全燃焼のおかしな試合で終わってしまって。2004年にNOAHの東京ドームで小橋建太vs佐々木健介という試合があったじゃないですか?ファンは。そういう試合を観たかったから熱狂したと思う。新日本が横道にそれていく中で、余計にああいうスタイルが光ったと思うんですよ。俺は後悔なんかしていないですよ。プロレスでそれだけのものを見せてきたから、(略)それを見ていてくれたファンの記憶を信じてやってきて良かったと思ってますから」と答えていた。永田の言うとおり、あの時代の新日本プロレスにファンは誰もが苛立っていた。猪木はその苛立ちを格闘技路線へ目を向けることで解消させようとしたが、いくら格闘技ブームであってもファンは望んでおらず、ファンは次々と離れNOAHを含めた他団体や格闘技へと流れていった。永田にとってミルコ戦やヒョードル戦での敗戦は長いレスラー人生の中の1ページに過ぎず、また改めてプロレスの本質というものを理解した一戦だったのではないだろうか…
「INOKI BOM-BA-YE」が無残な結果に終わったが、その後もK-1vsPRIDEの仁義なき戦いは続くも、2003年の興行戦争が格闘技バブル崩壊の序曲であることをまだ誰も気づこうとしなかった。2005年の大晦日では「K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!」が視聴率を14.8%を記録したのに対し、PRIDE男祭りは吉田vs小川をメインにしたことで視聴率17%を記録、遂にPRIDEはK-1を追い越してしまうが、2006年に表舞台から姿を消していた川又氏が公の場に登場して、週刊誌でDSE側が反体制勢力を使って自身を脅迫したと告発、これを受けてフジテレビはゴールデンタイムで視聴率を稼いでいたPRIDEの中継をコンプライアンスに抵触したとして打ち切り、これが引き金となって格闘バブルが一気に弾けてしまう。
2007年に資金源を失ったDSEはUFCにPRIDEを売却したことで消滅、格闘技ブームも下火へとなり、唯一残ったK-1も孤軍奮闘しDSE残党らと共に新格闘技イベント「DREAM」をスタートさせたが、格闘技ブームの衰退に歯止めをかけることが出来ず、選手のギャラの高騰もあって資金難に陥り、遂に運営会社であるFEGは2011年に活動を停止、K-1は別組織で運営されるようになった。格闘技から権威を失墜した猪木は新日本のリングで格闘路線を推進しようとするも、猪木事務所だけでなく新日本も資金難に陥り、猪木はユークスに新日本を売却、しかしユークス新体制は猪木の格闘技路線を否定したため、猪木は新日本を飛び出してIGFを旗揚げ、DREAMはIGFとの共催で大晦日興行を「元気ですか!! 大晦日!! 2011」を決行、猪木も8年ぶりに格闘技イベントに携わったが人気回復には至らなかった。
「INOKI BOM-BA-YE」はプロレスと総合格闘技を混合させたイベントとして、IGFが2012年に復活させたが、2015年を最後に開催されず、代わりに格闘技に復帰した榊原氏はフジテレビのバックアップを得て新格闘技イベントRIZINをスタートさせた。今思えば猪木の言うままに新日本が格闘路線を推進させていたらどうなっていたか…
格闘技ブームが衰退する中で猪木が売却した新日本プロレスは経営を健全化し、ブシロードによって新しいプロレスブームを生み出している。そして格闘技大戦争の渦に自ら飛び込んだ永田も今年でデビュー25周年を迎え、リングの上で健在ぶりを見せている。
(参考資料=金沢克彦・著「子殺し」谷川貞治・著「平謝り」)