練馬区 20 (13/10/23) 上土支田村 東大泉
上土支田村 東大泉町
- 大泉学園駅
- 北野神社
- 妙延寺
- 庚申塔 (134番)
- 馬頭観音 (87番、88番、105番、未登録)
- 参宝院
- 天祖稲荷神社
- 馬頭観音 (89番)
- 東映東京撮影所、東映アニメーション
- 弁天池
- 御園稲荷神社
- 牧野記念庭園
- 稲荷神社
- 大泉井頭遺跡
- 白子川 - 大泉井頭公園
旭町の史跡巡りを終え、次の訪問地の東大泉に移動する。
上土支田村 東大泉
東大泉は練馬区の西部に位置し、北部を大泉町、大泉学園町、西大泉、南部を石神井台、東部を三原台、石神井町、西部を南大泉に接している。
江戸時代、東大泉は豊島郡の土支田村に属していた。土支田村は大きな村だったので、上下両組に分かれていた。この東大泉の地域は、土支田村上 (かみ) 組だった。上組は1868年 (明治元年) に土支田村から独立して上土支田村となった。江戸時代の上土支田村は現在の東大泉、三原台 (2、3丁目の一部)、大泉町 (2丁目の一部) にあたるのだが、三原台は田中村巡りの際に訪問、大泉町は榑橋村 (くれはしむら) を訪れる際に見るので、ここでは東大泉町について記載しておく。
小田原衆所領役帳に土支田は源七郎分とあり、この源七郎は土支田のほか、岱 (台村)と根岸 (現在の朝霞市) に所領をもつ。
土支田村上 (かみ) 組には井ノ頭 (いのかしら、いがしら)、甫村 (ほむら)、下屋敷 (しもやしき)、前原 (まえはら) の小名があった。
- 井ノ頭は小井戸川 (現在の白子川) の源泉の井頭池がある大泉井頭公園辺り
- 甫村は大泉学園駅北側の一帯で、ホは真秀 (まほ) の秀で、土地を称賛する言葉、ホン (本) 村の下略、保村という諸説ある。保とは律令制の隣保組織で鎌倉時代以後、保は行政区分の郡・郷・庄・保の一つで、郡郷の下にある小さな集落を指していたので、ここは中世の保が地名の起こりとも考えられる。甫村の妙延寺付近は中村に、北野神社辺りは宮本と呼んでいる。
- 下屋敷は東大泉2丁目付近で、記録にはこの辺りには「前原先代官屋敷」とあり、その代官の下屋敷があった所とも推測される。また、石神井城主豊島泰経の下屋敷という伝説もある。バス停に名前が残っている。
- 前原は東大泉5、6丁目の広大な地域で、甫村の南、つまり甫村の前の原という意味になる。前原の先、石神井村との境に代官屋敷があった。
上土支田村は1889年 (明治22年) に市制町村制の施行で、上石神井村、下石神井村、関村、上土支田村、谷原村、田中村、田中新田、竹下新田が合併して石神井村が成立し、石神井村大字上土支田になっている。同じ時期に埼玉県新座郡に属していた小榑 (こぐれ) 村と橋戸村が合併して榑橋 (くれはし) 村となり、1891年 (明治24年) に大字上土支田は石神井村から分離し、榑橋村に編入され、榑橋村は大泉村へ改称され、大泉村大字上土支田になっている。合併当初は「小泉」と書いて「おいずみ」と読んでいたのを後に「大泉」に改変している。この合併は当時の村の経費削減のためだったと言われている。特に当時の村費全体の5~8割も占めていたのが学校費だった事から、上土支田の豊西小学校 (妙延寺内) と榑橋村の榑橋小学校 (本照寺内)を廃校として新たに泉小学校 (現在の大泉小学校の前身) を建て、経費削減を行った。大泉の名称は村内を流れる小井戸川 (現 白子川) とその源流の泉の井頭池に因み、当初は小泉村 (おいずみむら) として提案されたものが転じて「大泉」になったと云う。1932年 (昭和7年) に板橋区が成立した際に大字上土支田は東大泉町 (後の東大泉) に変更されている。1947年 (昭和22年) に練馬区独立後も下部の行政区は踏襲されている。
下の明治時代、昭和初期の地図では民家はまばらで、その範囲はほとんど変わっていない。1932年 (昭和7年) に上土支田村から東大泉町となった後、戦前までには地域の北部から民家分布が拡張している。
入手できた東大泉の人口のデータをグラフにした。それによると1970年までは順調に人口は増加をしている。1956年から1965年までは前年比人口増加率はかなり高いのだが、練馬区の他の地域に比べるとこの増加率でも低い方だ。これは東大泉地域の人口増加は既に戦前から始まり、1956年から1965年は人口急増期間の終盤期にあたっている。上の民家分布地図を見ても、1965年の地図では、民家はほぼ全域に広がっている。1980年に住居表示が実施され、東大泉町の一部を土支田に編入、北大泉町、旧上石神井二丁目のごく一部を編入し、東大泉一丁目から七丁目までの構成に変わった。それ以降、人口の増加は鈍化し、2010年以降は横ばい状態が続いている。世帯数は増加が続いており、民家分布は拡張している。
現在では東大泉の人口は練馬区の中で最も多い地区となっている。
練馬区史 歴史編に記載されている東大泉町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 妙延寺、参宝院
- 神社: 北野神社、天祖稲荷神社、御園稲荷神社
- 庚申塔: 1基 馬頭観音: 5+1基
まちづくり情報誌「こもれび」- 東大泉
東大泉町訪問ログ
大泉学園駅
1945年 (昭和20年) に武蔵野鉄道の合併改称で、西武農業鉄道の駅となり、翌年には西武農業鉄道の社名変更で西武鉄道の駅 (写真下) となった。
1983年 (昭和58年) には橋上駅舎に建て直され、現在は駅前は商店街となり大いに賑わっている。
北野神社
境内へは2000年 (平成12年) に建立された一之鳥居をくぐって入る。
参道途中には境内社の瑞穂稲荷神社がある。1909年 (明治42年)、上土支田村の下屋敷、中村、井頭に鎮座していた稲荷神社三社を合祀したもの。
参道を進むと途中に二之鳥居がある。二之鳥居の先、右手に手水舎が置かれている。
更に参道を進むと三之鳥居があり、そこに社号碑が置かれている。鳥居手前には1974年 (昭和49年) に奉納された狛犬が鎮座。拝殿 (写真左中) は1940年 (昭和15年) 造営されたものを改修し、本殿 (右下) は1974年 (昭和49年) に建て替えられている。また境内には練馬の名木に指定されたムクロジの巨木 (右中) も残っている。
社殿の右手に境内社が置かれている。何を祀っているのかは分からなかった。
社殿左から奥に伸びる裏参道沿いには板碑、力石、馬頭観音が置かれている。
妙延寺
北野神社の前のかつての清戸道にあたる都道24号線大泉街道を少し東に進むと江戸時代には甫村の中村という所になる。この清戸道は江戸時代には尾張藩の鷹狩場が清戸にあり発展し、昔から土支田や石神井の人々が農産物を江戸へ運ぶ重要な路だった。道沿いに三十番神社の別当寺だった日蓮宗の倍光山妙延寺がある。千葉県市川市の中山法華経寺の末寺で本尊は日蓮宗本山山梨久遠寺の釈迦牟尼仏を祀っている。この辺りには三つの日蓮宗寺院がある。江戸時代には先に訪れた三十番神社 (北野神社) と共に土支田村の信仰の中心だった。妙延寺史には草創は1568年 (永禄11年) 円乗院日宜上人、土支田村地誌調御改書上帳には開基加藤作右衛門 (豈性院殿日安) となっている。当時はこの地域では日蓮宗の神仏習合神の三十番神が土支田村の鎮守だった。
本堂は1965年 (昭和40年) に下層部が唐破風の四角形、上層部が八角形の望楼風の和風重層唐破風の鉄筋コンクリート造りでユニークな形に建て替えられている。本尊とともに三十番神像と大黒天が安置されている。
境内には樹齢400年の都保存樹指定の大イチョウ (写真左下) がある。この寺では幕末から寺子屋が置かれていた事から、1874年 (明治7年) に境内に練馬区では最初の学校である私立明倫学校が開校し、1876年 (明治9年) に公立豊西学校に昇格している。1891年 (明治24年) に大字上土支田は石神井村から分離し、榑橋村に編入され大泉村となった際に廃校となり、新たに建てられた泉小学校 (現在の大泉小学校の前身) に吸収されている。現在、妙延寺では空手教室やバレエスタジオが置かれ、夏には大泉は特撮とアニメの街という事で「銀河の夜の盆踊り大会」が開催され、地域の集いの場にもなっているそうだ。
庚申塔 (134番)、題目塔
境内には題目供養塔や、庚申塔・馬頭観音・地蔵尊などの石造物が置かれている。日蓮宗なので石仏はあまり見かけなかった。
本堂の左手に庚申塔と南無妙法蓮華経と刻まれた五つの題目塔が並んでいる。五つの題目塔は左から1809年 (文化6年)、庚申塔を飛ばして1864年 (文久4年)、1838年 (天保9年)、1786年 (天明6年)、1806年 (文化3年) に造立されたもの。大泉地域の特徴として、この題目塔が数多くある。練馬区の多くの地域では鎌倉時代に多く作られた板碑が残っているが、殆どはで阿弥陀如来を表している。一方、題目板碑も鎌倉時代に現れ始めたのだが、法華宗 (日蓮宗) の題目を刻んでいる。こに地域では日蓮宗の信仰が盛んだった事が判る。その信仰はその後も続き、ここに置かれている題目塔は江戸時代のもの。
左から二番目の駒型の庚申塔 (134番 写真下中) は1920年 (大正9年) に造立されたもので、比較的新しい。駒型石塔には合掌型六臂青面金剛とその下に三猿が浮き彫りされている。
稲荷社
庚申塔と題目塔の隣には鮮やかに朱塗された稲荷社がある。中には狐の背に乗り、右手に御幣、左手に宝珠を持つ翁像が安置されている。この型も稲荷社ではよくあるもので、他には男神として蛇の体に頭部が人間の宇賀神 (石神井公園の穴弁天 (宇賀神社) はこのタイプ)、女神としては狐の背に乗った荼吉尼天 (ダキニ天、吒枳尼天) が一般的。
馬頭観音 (87番、88番)、地蔵菩薩
朱塗の祠の右には3基の石仏があり、左端は1965年 (昭和40年) 造立の櫛型角柱型地蔵菩薩、中央は剥離がかなり進んでいるが資料によると1809年 (文化6年) に造られた方形文字型の馬頭観音 (87番) で右側面に「右しらこ道」左側面には「左堀之内道」と道しるべを兼ねている。右端の石塔も馬頭観音 (88番) で新しいもので1965年 (昭和40年) に造られている。中央の馬頭観音 (87番) の再建とも言われている。
馬頭観音 (105番、未登録)
この寺内にはもう二つ馬頭観音が置かれていると資料にはあったのだが、見つからなかった。墓地に置かれているのかも知れない。
馬頭観音 (105番) は1846年 (弘化3年) に造立された方形の馬頭観音像で、馬頭観音 (登録番号無し) は1867年 (慶応3年) に造立された駒形の塔に馬の頭、文字が刻まれていると紹介されていた。
馬場観音 (未登録)
妙延寺の前の清戸道の南側には上土支田中村の豪農だった加藤家屋敷があり、その門の脇に馬頭観音像が残っている。この加藤家が造ったもので、櫛型角柱の上部に馬頭観音を浮き彫りされ、その下に馬頭観世音と刻まれている。造立時期は刻まれているのだが、摩耗して読めず不明。
参宝院
妙延寺の東側の住宅街の中に平成20年に設立登記された浄土真宗の参宝院がある。新しいお寺の様で情報は見つからず。
天祖稲荷神社
清戸道を進むと北に向かって東映通りが分岐している。川越街道と清戸道を結ぶ古い村道だった。この道の先に東映東京撮影所があった事から通りの名が付けられている。この道の右側の住宅街の中に天祖稲荷神社が置かれている。大正時代以前に創建された神社で、かつては笠間稲荷神社と呼ばれていたそうだ。奉納者名には加藤さんが多い。この地域の豪農の加藤家の人達だろうか?鳥居はあるが、中には普通の民家の様に見える。この神社についてが情報がなくこれ以上は分からない。
馬頭観音 (89番)
天祖稲荷神社の東映通りの反対側の大きな松の木の根元に1911年 (明治44年) に造られた自然石があり、表には馬頭観世音と刻まれている。この馬頭観音造立にも加藤家が関わっている。
東映東京撮影所、東映アニメーション
ここは現代的な商業施設が集中している。その中にある東映東京撮影所 (右上) は1934年 (昭和9年) に新興キネマ東京撮影所が置かれた事から始まっている。1942年 (昭和17年) に新興キネマが日活と大都映画と合併して大映になると閉鎖されたが、戦後、1947年 (昭和22年) に東急資本で株式会社太泉スタヂオが設立され、貸しスタジオ営業をしていた。その後、太泉映画株式会社と改称して自社製作を開始。1951年 (昭和26年) に東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して東映株式会社を設立し、太泉映画スタジオは東映東京撮影所、東横映画撮影所は東映京都撮影所となり、街並みを再現したオープンセットも作られていた。
現在はオープンセット跡地は、1983年 (昭和58年) にショッピングセンター (現在はリヴィンOZ大泉 写真左下)、東映アニメーション (左上) などになり、旧正門辺りにはシネマコンプレックス (現在はT・ジョイSEIBU大泉 右下) が併設されている。
弁天池
弁天池公園がありその中に弁天池がある。明治初期頃に水田耕作の水の神様として弁財天が祀られていた弁天池があったのだが、その後、埋められたなくなっていたのだが、この公園に弁天池を復元している。池の辺りに朽ちかけた祠があった。多分弁天を祀っているのだろう。
御園稲荷神社
東大泉町の北側、白子川の近くにも稲荷神社がある。御園稲荷神社と呼ばれているが、詳細は見つからなかった。この辺りは近くの田んぼに溝野 (みぞの) あるいは味噌野 (みその) という飛び地があったことから「みその」と呼ばれている。この地域住民は今で講を行なっているそうで、その一つがみその稲荷の初午 (はつうま) 行事で、講中11名で毎年3月の初午の日に行われている。前日に宵宮が行われ、当日は、神社のある宮原で妙延寺住職の祈祷の後にお神酒などが出て、後当番のヤドに集まって祭祀を行っている。
牧野記念庭園
東大泉の南には牧野記念庭園がある。ここは今年の前期朝ドラの「らんまん」の主人公の植物学者の牧野富太郎の住居跡だった。牧野富太郎博士が晩年を過ごす為、1926年 (大正15年) に居をここに移し30余年暮らした。武蔵野の野趣豊かなこの地に居を移して研究に没頭した事が想像できる。跡地を1958年 (昭和33年) に記念公園として無料で公開している。公園内には庭園、記念館、銅像、書斎跡などがある。練馬の各所にらんまんのポスターが貼られ、牧野富太郎博士に関わるイベントなどが行われている。
庭園にはかつて牧野博士が世話をしていた草や木が今でも四季折々の花を咲かせている。庭園中には牧野博士の胸像が置かれている。
書屋展示室がある。コンクリート作りの鞘堂の中に牧野博士の書斎の「繇條書屋」と書庫の一部が保存されている。晩年、庭で植物の観察を行い、この書斎で著書の執筆や植物の描画などをしていた。足の踏み場も無いほどのおびただしい数で、4万5千冊にも及ぶ博士の書籍が、所狭しと積み上げられている。当時を伝える試みがなされて書斎の様子を再現して2023年 (令和5年) に公開されている。朝ドラがきっかけなのだろう。
この書斎で仕事をしている牧野博士の写真も展示されていた。
庭園内には記念館があり、博士の遺品や関連資料を展示している。博士が亡くなるまで暮らしていた邸宅の跡地に建てられたもの。常設展示室では、解説パネル、博士愛用の採集道具や描画道具、博士の執筆した書物や描いた植物図などが展示されている。
牧野博士は日本の植物分類学の父とされ、1862年 (文久2年) に土佐国高岡郡佐川村の酒造業を営む裕福な商家「岸屋」に成太郎と名付けられ誕生、高知での青年期に独学で植物の知識を身につけ、本格的な植物学を志し、1884年 (明治17年) に上京して東京大学理学部植物学教室へ出入りするようになった。郷里での植物採集を中心に各地で採集をおこない、1889年 (明治22年) に新種の植物を見つけ、国内において日本人が学名した最初となる「ヤマトグサ」と命名している。その後も次々と新種の発表をするなど目覚ましい活躍をしていた。日本植物志図篇 (1888-1891年) や大日本植物志 (1900-1911年)、牧野日本植物図鑑 (1940年) などの植物図鑑や植物記 (1943年)、植物一日一題 (1953年)などの植物随筆集を刊行している。大泉村に住み、山へ採集に出かけていたが、90歳ごろからは自宅の庭で長い時間を過ごすようになり、庭に移植した植物を観察・採集したり、標本を整理したり、時に、訪問客と尽きることのない植物の話題に花を咲かせていたという。93歳の時に病床につくが、なお植物の研究や、書き物を続けたそうだ。翌年の1957年 (昭和32年) に満94歳で亡くなった。植物研究に捧げた一生だった。博士の若い頃の写真があった。ドラマで牧野氏を演じた神木隆之介と少し雰囲気が似ている。
稲荷神社
牧野記念庭園記念館の隣は自動車教習所で、その中に稲荷神社が置かれていた。昔からあったのか教習所が新たにつくったのかはわからない。
白子川 - 大泉井頭公園
牧野記念庭園の西には荒川水系新河岸川支流の白子川が流れている。この白子川が東大泉の境界線になっている。白子川はこの場所に設けられた大泉井頭公園から始まり、西大泉、大泉学園町、大泉町、土支田、埼玉県和光市南、白子、下新倉、板橋区成増と流れ、笹目橋付近の板橋区三園で新河岸川に合流している。
大泉井頭遺跡
白子川の大泉井頭公園のすぐ東では縄文時代中期の大規模な集落址が発見されている。住居址以外に石棒を割って埋めた跡、土製の耳栓など、祭祀に関連すると考えられる遺構・遺物等も出土している。近くには大泉井頭公園があり、その付近には、かつて湧き水が豊富な井頭池が存在し、池周辺に居住していた遺跡と考えられる。現在は住宅街となっており、かつての武蔵野の面影は失われて、案内柱だけが立っている。
初日という事で、少々気張り過ぎたせいか、少し足が痛む。悪化しなければ良いのだが、予定では東京滞在の後は、東海道を自転車で走り、京都、大阪、姫路、小豆島に行くつもりだが、足が痛むのでどうなるか不安。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)