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練馬区 22 (16/10/23) 橋戸村 大泉町

2023.10.16 13:47

橋戸村 大泉町



橋戸村 大泉町

大泉町は練馬区の北西部に位置、北部を埼玉県和光市、南部を東大泉、南東部を三原台、東部を土支田、西部を大泉学園町に接している。

現在の大泉町は江戸時代には橋戸村と呼ばれていた。ハシト (橋戸) の語源は、橋の架かる処 (と) とか、端 (はし) の瀬戸とかが考えられる。村の開発者が八戸あったからとする説もあるが、白子川の地形がつくるこの「端の瀬戸」とする説が有力だそうだ。この橋戸の地名が初めて文献に現れるのは、1596年 (慶長元年) の服部半蔵宛て古文書で、以来、橋戸村は、隣の白子村 (埼玉県和光市) とともに伊賀組の領地だった。ほとんどが幕府直轄の村ばかりあった練馬区内としては、数少ない私領で、忍者服部半蔵率いる伊賀組の給地だった。

橋戸村は、1891年 (明治24年) まで、埼玉県新座郡に属し、字には広沢原、越後山、中里、中ノ前、八ケ谷戸、影山、打越、外山、北原、中耕 (なかごう)、中丸、宮久保、愛宕下、谷 (や)、前田などの記載が見られる。

1889年 (明治22年) に橋戸村は小榑村 (こぐれむら) と合併して埼玉県榑橋村 (くれはしむら) となり、1891年 (明治24年) に東京府へ編入され大泉村大字橋戸となった。1932年 (昭和7年) の市郡合併で板橋区になった際、大泉村は東・西・南・北大泉町と大泉学園町の五つに分かれ、旧橋戸村は北大泉町と呼ばれた。1947年 (昭和22年) に練馬区成立後も町名はそのままだったが、1980年 (昭和55年) の住居表示実施に際し、北大泉町の大半の部分に旧大泉学園町の一部を合わせて、北端のイメージをぬぐい去って「北」をとって今の大泉町となり、大泉町一丁目から五丁目が成立した。1982年 (昭和57年) の住居表示実施では北大泉町の残余に旧大泉学園町の一部を合わせて大泉町六丁目が成立した。民家の分布が判る地図では、戦前までは変化がない。多分、江戸時代の集落がそのまま続いていたと思われる。

この地域の人口が増え始めたのは戦後になる。1956年に人口は1111人だったのが、1960年から1970年までは毎年二桁に人口増加率が続いている。特に1960年から1965年の五年間は前年に比べ20%~35%の人口の急増が続いている。住宅建設ラッシュの時期になる。1970年までの10年間で人口は10倍になっている。1970年以降も人口増加は率は低下したが、1978年まで続いている。1932年 (昭和7年) 以降は北大泉町だったが、1980年 (昭和55年) の住居表示実施で、北大泉町の大半の部分が大泉町となり、旧大泉学園町の一部を合わせて大泉町一丁目から五丁目が成立。1982年 (昭和57年) の住居表示実施で北大泉町の残余に旧大泉学園町の一部を合わせて大泉町六丁目が成立している。それ以降は人口は横ばい状態となり、2015年以降は微減傾向となっている。世帯数も2020年以降は横ばいとなっている。


練馬区史 歴史編に記載されている大泉町の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り


まちづくり情報誌「こもれび」- 大泉町


大泉町 訪問ログ



教学院

東映通りから北西に白子川を渡った所には真言宗智山派寺院で十一面観音を本尊とする西円山教学院がある。この地域は日蓮宗の寺院ばかりなので、真言宗の寺は珍しい。

山門へは石畳道となって、その脇には延命地蔵とされる丸彫の地蔵菩薩像が置かれている。1753年 (宝暦3年) に武刕豊嶋郡土支田村講中廿人により造立され、台石正面には「南無地蔵尊二世安楽」と刻まれている。

山門を入ると参道脇に手水舎があり、反対側には客殿が建てられている。

墓地側には人間国宝の香取正彦作の梵鐘も置かれている。

参道の先に本堂が置かれている。教学院は1268年 (文永5年) に長全法印によって永福寺として北方の丸山に開山したと伝わっている。1354年 (正平9年) に児玉郡本庄城主だった荘左衛門弘泰、弘朝父子が武蔵野合戦の後に、橋戸村に土着し、この永福寺を菩提寺としている。その後、長らく衰微していたのを、1560年 (永禄3年) に良賢法印によって中興された。江戸時代中期に三宝寺の末寺となり、この地に移転し、西円山教学院と改称している。1941年 (昭和16年) に三宝寺との本末関係はなくなり独立している。十一面観世音菩薩を本尊とし、豊島八十八ヶ所霊場46番札所になっている。境内にある建物はいずれも大正年間以後に改築し平成の大改修で整備されたもの。


閻魔十王像と壇拏塔

境内の梵鐘と墓地の間には、生前の善行・悪行により死者を裁き、死後に行くべき世界を定める閻魔十王様の像が置かれている。中央の閻魔大王の両脇に十王の秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王が鎮座している。

閻魔十王像の向かい側には閻魔大王が審判の際に使われる檀拏幢 (だんだとう) がある。杖の上部に柔和な女相の顔と怒った男相の顔のふたつがあり、死者が重罪であれば怒った顔の口から火を噴き、罪がなければ優しい顔から芳香が漂うとされ、閻魔様はこれを見て死者への裁きを判断したという。この壇拏幢は1690年 (元禄3年) に橋戸村荘氏により造立されたもの。


馬頭観音 (93番)

閻魔十王像の左脇に1634年 (寛永11年) 造立の隅飾型の笠のは小型の宝篋印塔が置かれ、更にその横に角柱型の馬頭観音 (93番) がある。古い馬頭観音で1797年 (寛政9年) に土支田村講中により造られたもの。正面上部には梵字のウン、その下には馬頭觀世音と刻まれている。側面はかなり摩滅して今では判読不能だが、道標も兼ねていたそうだ。


庚申塔 (未登録)、馬頭観音 (未登録 2基)

本堂の左側、墓地の塀の前に無縁仏や石塔が集められている。ほとんどが無縁仏で、江戸時代初期のものが多い。その中に最前列の左端に自然石の庚申塔があった。1904年 (明治37年) 造立されたもので中折れを補修している。一つ挟んで右側には二基の馬頭観音が並んで置かれている。二つとも自然石の文字型馬頭観音で、左側の馬頭観音は1923年 (大正12年)、右の小型の板状自然石の馬頭観音は1924年 (大正13年) に造立されたもの。

最後列には1690年 (元禄3年) 造立の舟形光背型の聖観音菩薩立像、その隣には1730年 (享保15年) の地蔵菩薩立像などが目立った。


當山開基荘家墓所

墓地内に「當山開基荘家墓所」と書かれた石柱がある。南北朝時代にこの地に土着して永福寺 (教学院) の開基でこの寺を菩提寺とした児玉郡本庄城主の荘氏の江戸初期からの累代の墓で、五輪塔や宝篋印塔が置かれている。


氷川神社

教学寺の北の都道24号線から氷川神社への参道が伸びている。社号碑が置かれた1991年 (平成三年) に建てられた一之鳥居 (写真右上) をくぐり、石灯籠が置かれた参道 (左下) を進むとその先に二之鳥居 (右下) がある。その先の石灯籠のある階段を登ると境内に入る。

境内に入ると、右手に手水舎が置かれ、その奥に社殿があり、客殿、1991年 (平成3年) 平成大造改修の際に建造された神楽殿も建てられている。氷川神社の創立年月日は定かでは無いが、一説では文永年間 (1264年-1274年) ともあり、武蔵国一の宮氷川神社から勧請したもの。江戸時代の頃は、荘 (庄) 氏とされた村民の庄忠右衛門の屋敷内にある祠として在五中将 (在原業平) を祀っていた。庄氏は武蔵七党の児玉党を構成した氏族だった。当時は同じく忠右衛門が管理していた天王社 (現在の大泉八坂神社) が橋戸村の鎮守だった。明治維新後、1874年 (明治7年) に橋戸村の鎮守の村社となった。祭神として須佐之男命、大己貴命、稲田姫命を祀っている。1908年 (明治41年) に愛宕下の愛宕神社、中耕の稲荷神社 (後に環座)、富士下の浅間神社の三社を合祀している。愛宕神社 (祭神: 香具槌命、火産霊命) は相殿になっている。

社殿は1880年 (明治13年) に改築が行われたが、その後、社殿の老朽化に伴い、1975年 (昭和50年) に鉄筋コンクリート造り、銅板葺・流造に改築されている。


境内末社: 白山神社、弁天社、御嶽神社

社務所の右隣に弁天社 (写真上) が置かれてている。弁天池を模した中に祠が建っている。その隣には小さい二つの祠がある。左側が別の場所から移設され1969年 (昭和44年) に建てられた白山神社 (左中)、右側に1977年 (昭和52年) に整備された御嶽神社 (右中) が置かれている。更にその隣には稲荷神社 (下) が境内末社としてある。


境内末社: 稲荷神社

もう一つ境内末社の稲荷神社が置かれている。かつて江戸時代には橋戸村と隣接する白子村 (現 和光市) を所領した伊賀衆の守護神だった稲荷神社になる。1582年 (天正10年) の本能寺の変で上京していた徳川家康が国元の三河に急いで帰国する際に、家康を警護していたのが甲賀衆と伊賀衆だった。その後、家康が江戸に入城した際、甲賀組と伊賀組はこの功績により、新たに領地を与えられた。遠藤宗家が属していた甲賀百人組は、德川家康が江戸城に入府してから青山百人町にあった青山甲賀屋敷、千駄ヶ谷甲賀屋敷、青山権田原の鉄砲演習場を幕府から拝領。服部半蔵率いる伊賀組は、新宿百人町伊賀屋敷と橋戸村を与えられている。明治維新後に稲荷神社は村民に下げ渡され愛宕下 (東京外環大泉インターチェンジ付近) の愛宕神社に遷されたが、愛宕神社が氷川神社に合祀された際に氷川神社の境内社となっている。

鳥居右手には1849年 (嘉永2年) に伊賀組衆百八名が奉納した御手洗石 (水盤) が現存している。稲荷神社がここに移ってきた際に共にこの地に置かれている。水盤の正面上段には、家紋 (源氏車に宝珠)、下段に相給年番・伊賀者組頭・地方掛の役職にあった9人の氏名が彫られ、右側面には1590年 (天正18年) の徳川家康の入府に従って、江戸周辺に給地を賜った伊賀衆の由緒が漢文で刻まれている。

その近くに破損してはいるが、同じく伊賀衆奉納の鳥居の柱が保存されており、左右の円柱に伊賀衆を始めとした99人の奉納者の氏名が刻まれている。


月光寺

都道24号線の東には住宅街のビル内に月光寺という日蓮宗系の寺がある。長崎市の日星寺が本山の様で、この月光寺は関東一円の布教活動に勤めている。住職は在家より出家し、被爆地と共に宗教戦争の島原の乱があった故郷の長崎で布教を始め、2000年 (平成12年) に普賢山日星寺を創建している。日蓮宗の組織内でに活動ではなく、個別に布教活動を行っている様だ。


庚申塔 (135番)

都道24号線を東に戻り、大泉インターの近く、スーパーバリューの駐車場の入口に堂宇があり庚申塔が祀られている。このスーパーにはよく来ていたが気付かなかった。この笠付角柱型の庚申塔は1715年 (正徳5年) に武刕新倉郡土支田村講中により造立され、日月、青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。この場所の東には白子川が流れている。インターで当時と様子は変わってしまっているのだが、白子川の橋を渡って所にあたる。白子川は橋戸村と上土支田村の境界線だったので、ここは橋戸村の東端になる。この庚申塔は村を守る塞ノ神の役割を果たしていたと思われるのだが、橋戸村講中ではなく上土支田村講中が橋戸村に置いているにはどうしてだろう?


精進場稲荷神社

大泉インターの東側には精進場稲荷神社がある。この稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、豊島郡土支田村下屋敷精進場の鎮守社として祭祀されていた。1907年 (明治40年) に氏子の総意で氷川神社に合祀されたものの、1934年 (昭和9年) に、当時地域集落一帯に悪疫が流行し、その災疫を除くため元の地に環座されている。以前は広い境内を有していたが、1969年 (昭和44年) に関越自動車道用地として境内地の中央部分が買収され、1978年 (昭和53年) に残された社地に社殿等を新築し祭神の稲倉魂命を祀っている。

境内末社として御嶽神社の祠が置かれている。この地でも山岳信仰は盛んだったにだろう。通⬜︎(雨辺に尚)霊神、一山霊神などの碑も建てられている。同じ場所には大東亜戦争記念碑が戦後33年の昭和53年に建てられている。戦地での戦没者慰霊碑と出征軍人の顕彰碑を兼ねているので記念碑としたのだろう。


武蔵御岳神社

大泉町を北東に進むと民家脇に鳥居と祠があった。この神社についての情報は見当たらなかった。鳥居には「大正11年」とあるので、それ以前に創建されているのだろう。


大泉寺 (西信寺別院)

浄土宗寺院の大泉寺の始まりは、1625年 (寛永2年) に大塚に開山された仏法山宝樹院西信寺の第20世見誉上人は動物愛護の念が篤く、自坊で飼っていた猫、さらには周囲で行き倒れになった犬・猫・牛・馬にまでも戒名を与え供養していたが、人間と動物を同じ場所に埋葬することはできないので別院を設け動物専用墓地として、1908年 (明治41年) に豊島区長崎に「動物愛護供養会」を開設されたことになる。その後、1931年 (昭和6年) にこの場所に移転し、当時では国内唯一の「犬猫の寺」といわれた大塚の「西信寺」別院となる動物墓地「大泉霊園」が誕生した。現在ほどペットの供養が一般的ではなかった時代において、動物用の火葬場、納骨堂、墓地などが備わった貴重な施設だった。大泉動物霊園とも呼ばれている。

現在では都内各地からペット類 (犬・猫・小鳥など) の埋葬供養に訪れる人が多い。動物慰霊碑も建てられており、春秋の彼岸の中日には、恒例の動物慰霊大法要が行われている。

墓地はペット専用で普通の墓地と変わらない広さにぎっしりと墓があり、ペットの名が書かれている。


別荘坂

大泉寺から都道108号線 (東京朝霞線) に戻り北へ進む。白子川へ下り坂になっている。都道108号線のこの辺りも別荘通りと呼ばれている。この坂は別壮坂と呼ばれている。江戸時代に、この付近に「荘」という姓の家があった。先に訪れた教学寺に墓所がある南北時代の児玉郡本庄城主だった荘左衛門弘泰、弘朝父子の子孫の一族の荘氏だろう。近くに別の「荘」氏が来たため「荘埜」姓に変更した。坂下の橋の名前をつける時に「別の荘氏である」という意味で「別荘橋」と名づけたと伝わる。この橋に通じる坂になる。


長久保道碑

別荘坂の途中に長久保道の石碑が建っていた。この道がかつての長久保道だったのだ。練馬区を巡ると、この長久保道の石碑に出会う。長久保道は貫井の清戸道の旧宮田橋付近で北に分れ、 富士街道 (ふじ大山道) を横切って光が丘地域の南東付近の高松 (石碑がある) から北西方向へ進みし、高松5丁目9番の北側を通って笹目通りを横断し、都道443号 (南田中町旭町線) を進み、土支田地蔵付近を通り過ぎて、分岐する都道108号と進み土支田通りを横切り、この坂道を下り、白子川の別荘橋を経てそのまま北西へ進み、膝折 (朝霞市) で川越街道と合流している。

いつ頃から長久保道と呼ばれたのかは明らかではないが、明治8年編纂の武蔵国新座郡村誌の橋戸村の項に「北の方下新倉村界より来り下土支田村に入る・・・」と長久保道の事が書かれている。


別荘橋

坂道を下ると白子川になり、ここに架かっているのが別荘橋。ここは昔は橋戸村に属していた北原という土地。橋戸村には帰化人とされる荘氏が元禄時代まで名主として古くから広い土地を所有していた。ちなみに、白子(シラコ)は「新羅」の転訛で、渡来人らが開いた土地とされる。この地に同じ荘という家族が移って来て、別の荘という意味でつけられた名になる。


中里地蔵尊、庚申塔 (136番)

白子川に架かる別荘橋のたもとの大きな木の下に大小二つの小堂が立っている。

左の小堂の中に1850年 (嘉永3年) に武州新座郡中里村講中により造立された駒型石塔の庚申塔 (136番 写真左下) が置かれ、正面に日月雲その下に剣を持ちショケラをぶら下げた六臂青面金剛立像が浮き彫りされている。風化が進み摩耗も激しく形ははっきりしないが、なんとなくわかる程度になっている。台座は土の中に埋まっている様で三猿が浮き彫りされているかは分からなかった。

右の小堂には地蔵菩薩立像 (右下) が置かれている。1788年 (天明8年) に新座郡上白子村講中により造立されたもので、舟形光背の上部に地蔵菩薩を表す梵字「カ」が刻まれ、その下に錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。足元には「南 江戸」「左 □□」「右 □□」と刻まれており、道標を兼ねていたようだ。


八坂神社、中里富士塚

別荘橋を渡り北に進むと八坂神社がある。参道を進むと境内に入り手水舎が置かれている。写真下はこの後、登った富士塚から見た境内の全景。

境内の階段を登ると社殿がある。拝殿とその奥が本殿になっている。八坂神社の創建年代等は不詳だが、いつの頃か、京都八坂神社 (祇園社) の分霊を勧請して創建している。祇園社の守護神が牛頭天王なので、江戸時代には中里の村人からは「中里の天王様」と呼ばれ、天王社と称し、須佐之男命を祭神として橋戸村の鎮守社として祀られていた。むかしから境内の樹木を折ると熱病にかかるという言い伝えがある。またこの八坂神社同の氏子は胡瓜を作らなかったという。八坂神は瓜を嫌い、これを食した者は神罰を受けるの伝説がある。これは、胡瓜の切り口が、御神紋に似ているためだともいわれている。

社殿の左側には境内末社として御嶽神社 (国常立命) が奉祀されている。狛犬ではなく狛狼が祠を守っている。その奥には浅間神社 (木花咲耶姫命) も置かれていた。

社殿右にはもう一つ境内末社の稲荷神社 (稲倉魂命) も鎮座している。こちらは狛狐が鎮座している。これで狛犬、狛狼、狛狐のフルキャストとなっている。(天満宮なら牛が加わるのだが)

境内には富士山信仰の富士塚が残っており、毎年8月1日に山開きが行なわれている。中里の富士塚は高さ約12m、径が約30mあり、区内最大規模のもの。1873年 (明治6年) に大泉丸吉講によって崖の斜面を利用して築かれたといわれているが、1822年 (文政5年) の石碑があることから、江戸時代すでにその原型があったと思われる。

富士塚の右裾のあたりに胎内と呼ばれる横穴 (写真左下) がつくられている。富士講では胎内信仰というものがある。富士山の聖地を巡る中に、溶岩樹型洞窟があり、富士塚でもそれを模して胎内をつくり、参拝をするそうだ。

合目石に沿って頂上まで登ると、36基もの石造物があるという。一合目から頂上まで、亀磐、鳥帽子磐、馬脊山、剣峰、駒嶽、薬師嶽、経ケ嶽、不士森稲荷、関連大黒天、日乃御子、秋葉神社、御室浅間神社、聖徳太子などの石碑が置かれているそうだが、8月の山開きから二ヶ月以上経っているので草が深くなり、全部は見つからなかった。また、その他には道祖神の碑 (写真右下) があり区内で唯一のものになる。これは見つけた。嘉永7年 (1854年) 銘の「三十三度登山大願成就」の碑も見られ、33回以上登山したという碑も二基ほどあるそうだ。


尾張殿鷹場碑

大泉第一小学校の正門右脇に尾張殿鷹場碑が保存されていた。江戸時代には、尾張徳川家の広大な鷹場があり、その境界線に置かれていたもの。石神井公園ふるさと文化館にも展示されていた。練馬区内では小榑村 (現在の西大泉・南大泉・大泉学園町一帯) と橋戸村 (現在の大泉町一帯) が鷹場だったが下の説明では、ごく一部で、尾張徳川家鷹場は驚くほど広い。この尾張殿鷹場碑は境界線に41ヶ村に渡り83本敷設され、練馬区内では二本置かれていた。その一本がここに残っている。もう一本は1913年 (大正2年) ごろまで南大泉1丁目17番1号地先に置かれていたのだが、現在では石神井公園ふるさと文化館で保存展示している。展示されている鷹場碑は、高さ78cm、縦・横15cmの石造角柱で、下部が欠損し、3個体に折損している。正面に「従是西北尾張殿鷹場」の文字が彫られている。

鷹狩りは、飼い馴らした鷹を放ち、小鳥や小動物を捕らえる狩猟法で、当時は、将軍の許可が必要だった。尾張徳川家の鷹狩りは、1631年 (寛永8年) から1867年 (慶応3年) まで軍事訓練や農村の視察に加えて、民衆に大名の威信を示すことを目的に行われていまた。1回の鷹狩りで、300名あまりの尾張藩士が参加し、約10日間行われることもあった。大名にとって鷹狩りは華やかな行事でしたが、鷹場に住む農民にとっては大変な負担だった。1644年 (寛永21年) の鷹狩りの際には、小榑村からの35名、橋戸村からの8名をはじめ、近辺の51か村から1,166名の農民が人足として徴発されていた。鷹狩りがないときでも、鷹場に住む農民にはさまざまな規制があり、鷹狩りに備えて道や橋を修繕しておくのはもちろんのこと、鷹狩りの獲物である鳥が逃げないように、普段から「犬猫は放し飼いにしない」「大声で人を呼ばない」「手をたたかない」「かかしを勝手に立てない」など細かい規定があり、破ると罰せられた。大泉第一小学校の正門の右脇にある尾張殿鷹場碑は、石造の角柱で高さ約1.2mあり、「従是南北尾張殿鷹場」の文字が刻まれ、これより南北方向は尾張殿の鷹場であることを示している。造立年代は不明だがもとは大泉学園町の北端 (旧押上) にあったものを移設している。


馬頭観音 (未登録)

かつての長久保道の都道108号線を北に進むと途中に辻がある。白子村から大泉村を経て橋戸村を通り保谷村への道になる。この辺りは橋戸村の北原という場所で、荘氏が名主として古くから広い土地を所有していた。畑の辻に馬頭観音が置かれている。正面には「馬頭観世音」と書かれ、裏には1979年 (昭和54年)  と造立年が刻まれている。今まで見た馬頭観音の中では最も新しい。この時期まで馬頭観音信仰が残っているのは驚きだ。農耕場は既にトラクターに変わっている時代で、馬頭観音信仰も消えてしまったと思っていたが、根強く残っていた。この近くに農家の人が飼っていた馬か牛の供養として建てたのだろう。


これで予定していた大泉町の史跡は見終わったが、まだ時間に余裕があるので、東大泉との境界線になっている白子川沿いを走って帰路に着く。この白子川の河岸には幾つもの公園が設けられ、近隣住民の憩いの場所になっている。その公園の幾つかを見ながら帰る事にした。



白子川

白子川は荒川水系新河岸川支流で東京都および埼玉県を流れる約10kmの一級河川。大泉井頭公園から始まり、西大泉、大泉学園町、大泉町、土支田、埼玉県和光市南、白子、下新倉、板橋区成増と流れ、笹目橋付近の板橋区三園で新河岸川に合流している。川岸にはいくつかの公園が設けられている。


橋戸公園

子供の遊器具が多くある。小さな子供がいる家族には良い遊び場になっている。


あかまつ緑地

白子川沿いにあるあかまつ緑地は自然を残した公園で木々が覆い茂り遊歩道や人工池などが整備されている。先程の橋戸公園とは打って変わり、ゆっくりと散歩に適した公園だ。


清水山の森

白子川沿いを走り、今日前半に訪れた別荘橋まで来た。ここには清水山の森の公園がある。この清水山の森は東京23区唯一の大規模なカタクリ群生地だそうだ。この公園が造園されたきっかけが昭和49年に群生するカタクリが確認され、その保全の為、昭和51年に「清水山憩いの森」として整備されたもの。

約10万株のカタクリは3月下旬から4月上旬に花を咲かせ、この期間は一般公開されている。残念ながら、それ以外の期間はカタクリ保護育成機関として一般の入場は出来ないので、外からの写真と公開期間に訪れた人がアップしていた写真が下のもの。



参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)