1周目(や)
先日、大学院のときの指導教官が、会社から5分の書店でトークイベントをするというので、私も、仕事終わり、ジーパンに白いTシャツという出で立ちで向かった。会場について、背中が痒かったので、ボリボリとシャツの上から掻いていると、かさぶたが剥がれたようで、うげ、と思った。お気に入りの黒柳徹子の写真が入ったTシャツだったからである。
指導教官は、そのイベントの書籍の著者ではなく、ゲストで、私はいつもお金がなくて出版業界にいるのに本を買うという心の余裕と部屋の空きがないため、その本も読んでおらず、Tシャツに血染みが広がらないかも気になったし、たまに指導教官(開始からずっと話していたのである)の言葉をメモに取ったりして、ともかくぼうっとしていた。
ところが、である。指導教官の話が終わり、その本を手がけた訳者の方が話し始めた瞬間、ハッとしてしまった。その方の話していることは、文章に書き起こしてしまえばそれこそ標準語と違わないのだけれども、ちょっとしたアクセントや、喉に引っかかるあの感じ、口の開け方が発音に及ぼす影響で、私は、その先生が自分と同郷だと気づいてしまったのである。
私は実は音感がすごく良いので(というのは嘘だけれど)、ドレミで説明できるのならしてみたいけれど、そういう言葉にできることではなくて、脳内にビビビッという感じで、「あ、同じ人だ」と気づいたので、我ながら気持ちが悪くなったほどだった。そして、イベント終わりにご本人に話しかけてみると、確かにそうだったのである。
私は、高校を卒業するまで福島市に暮らした。その頃まで私は自分が訛っているとは微塵も考えたことがなかった。なぜなら、文章化されたそれと、自分が話す言葉は違っていなかったからである。時々、ひゃっこい(冷たい)、とか、手わすら(手遊び)、とか、うるかす(水にひたす)とは言っていたけれど、それは違いとして意識していたし、自分が話しているのは標準語と違わないと信じてやまなかった。
それが東京に来た瞬間、「じゃけえのお」を連発する広島出身の友人に「お前が言っていることは、何一つわからん」と言われた。他の人にもすごく訛っていると真似をされた。どこをどう気をつけたか、今では覚えていないのだけれど、いつの間にか私は、自分の方言を忘れてしまったのである。アクセントだけが違うので、それを別物として取っておくことが自分にはできなかった。しかし、いまでもたまに「え、どこの人?」と問われるので標準語を話しているわけでもないらしい。と言いつつも、東東京の方に引っ越してから、さしすせそ、の発音が苦手になってきてしまい、ますます私の日本語は混沌を極めている。
大学受験の時、本当は私大を受験してそのまま東京に十日間ほどいるつもりが、私は神経がおかしくなってしまい、深夜に親に電話して、帰ってきてしまった。それを担任に言ったところ、帰ってきてよかった、と言って、続けて真顔で「実は前に受け持った子で、こんな子がいたの」と話してくださった。というのは、真面目で真面目で、東大を受験しようと東京に行って泊まったホテルの部屋に、アヤシイ番組を見るための有料カードを差し込めるテレビがあり、「それで、もうダメになってしまった、と本人も言っていた」だそう。
同じような「都市伝説」レベルで、高校の先生には、東京に行くと、駅がとても混んでいて、一番前に並んでいると後ろからホームに突き落とされる、一番前には並んでいけない、と言われ(それを忠告してくださった先生のことを、卒業してから何年もたって、友人が「ゲイではないか」と聞いた噂を話していたが、本当にそんなこと、どっちでもいいし、私はその先生のことが、ずっと、なんとなく好きな方だった)、そして、それと同じような不確かさで、「昔、福島出身で、東京の大学に行ったが、方言が変だ変だと言われて、気に病んで自殺してしまった人がいる」という話を聞いた。確か会津の方の話だったように記憶しているが、東京は、駅で突き落とされるところ、そして、方言を話し続けていれば、そしてそれを気に病んでしまえば、自ら死を選ぶことだってありえる怖い場所だった。だから私はスッパリと、方言を取っておくこともせずに、標準語との間に横たわるクレパスの中へ、つまり、謎な深淵のアクセントへと自らの身を進めたのかもしれない。
そうしてアクセントを覚えるごとに、だんだん、実家の母や祖母が話している言葉が「違う」という意識が芽生えていった。そして、去年祖父が亡くなって、東京の家で、ひとり思い出を浮かべ、空中に名前を読んだときに、突然、私は、気が付いたのだけれども、私が「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼ぶときの発音には、私の言葉における出発点のようなもの、原始的なもの、はじまりの空白が、しっかりと残っていたのである。その発音は、喉を伝うように、うまい発音では全然なくて、口を大きく開けなくてもズィーと響く。意識したことは全然なかったけれど、私は言葉を話し始めたその瞬間、つまり、ルソーが言うところの、井戸で偶然出会った人類が、愛の呼びかけで「あ」と発したのと同じように、私と祖父母をつなぐ、初めての一本の線として、その原始的な発音は、今に続いていたのである。
この発音を意識してしまえば、きっと消え去ってしまうだろう。祖父の死は、祖父の不在ではなく、声を思い出せないことで実感が深まっていく。録音した声じゃ全然違う。あんなにしっかりと聞こえていて、覚えていた声が、はっきりとした形を保っていられなくなるのだ。姿は、写真を見返すことで、新たな形で固められていく。けれども、私は、もう一度でいいから祖父の声を聞きたい。急に亡くなる前日、本当は電話をするつもりだったのだが、珍しく休日に仕事が入っていて、結局電話ができなかった。最後に話すことができたら、何を話しただろうかと少し考える。内容は溶けてしまっても、語感と、語尾の喉に収まるその感じがリエゾンとして続いただろうかと考える。
一方で、会ったことのない人の声を、私はしっかりと覚えている。大学院のとき、私は若くして亡くなったスイスの女性作家について調べていた。その人は、ナチスの台頭期に、自分はひとりペルシャへ向かい、素晴らしい文章を数多く残した人だった。
研究を始めて間もないある日、夢の中で、彼女と私は、おそらくスイスの駅にあるカフェかバーの、長机に隣同士並んで、赤い皮の高い椅子に座っていた。私たちは、たわいない話をして、彼女の声は、想像していたよりもずっと低く、繊細でも力強かった。そのうち私が、「どうしてあなたはそんなに強くいられたの」と泣いてしまったけれど、背の高い彼女は、私をぐっとハグしてくれた。
その後、いろんなアーカイブ映像を見ていて、動く彼女の姿は確認したけれど、その声を聞くことはもう叶わない。それでも、私は、あの夢の中で聞いた彼女の声を頼りに、彼女の文章に向き合い、彼女に「出会い」続けてきた。
私の故郷は、きっとテキストの中にはない。それは、極めて壊れやすく、失われやすい、響きの中にかろうじて存在している。しかし、それを突き詰めて行こうとすれば、それは形を留めることができずに壊れてしまうのだ。それでも、夢の中で確かに聞こえた声のように、それは確かに私を導き、そして、新しい音が私の中で、周りで生まれていく。