投馬国
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
私は不弥国(宇美)から南に水行二十日というのは、現在の宇美国と太宰府に流れる宝満川を上流に上ると解釈しました。
その上流にある巨大都市というと現在の久留米市があります。
皆さん御存知の通り久留米市には高良大社がありその近くには徐福の金立山と吉野ヶ里遺跡が存在します。
高良大社
金立神社
久留米の地名は来目皇子からついたと云われ「くるめ」より古い地名は高良山の古い地名と伝わる高牟礼 もしくはその麓の朝妻七社のある「あさつま」「こうら」か「たから」であったかもしれません。 それを「とうま」もしくは「つま」と聞き違ったか発音したかもしれません。
伝承通りなら徐福はすでに来日し吉野ヶ里や高良大社に何かしらの影響を与えていたと思われます。 ただ高良大社の「高良玉垂神秘書」によると初代住吉こと安曇磯良とは山幸の息子 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこ なぎさ たけ うがやふきあえず の みこと)のことを指すとありますので まだ高良大社は高木大神の時代であったと思われます。
単純に考えると官の弥弥こそが高木大神(もしくは徐福の子孫)であったと考えてもいいように考えます。 もしくは神武天皇の息子(実際は義兄弟)とされる神八井耳のことかもしれません。 もしかしたら高良大社のある山をを耳納山と云うのも関係が有るのかもしれません。
倭国の一国とは現在の一つの市や町ぐらいの大きさで、九州だけで軽く五十国を超えると考えられます。
多くの歴史家達は投馬国を出雲等と考えた為に邪馬台国を別の場所であると考えてしまったと思われます。
ここから邪馬台国を導き出していきたいと思いますので御協力お願いいたします。