練馬区 22 (16/10/23) 小榑村 (2) 大泉学園町
小榑村 (こぐれむら) 大泉学園町
- 法性院 (ほっしょういん)
- 善行院 (ぜんぎょういん)
- 旧大泉村役場跡
- 馬頭観音 (太田町 未登録)
- 馬頭観音 (荒屋敷 登録番号無し)
- 加藤家大けやき
- 馬頭観音 (東新田 69番、97番)
- 石仏群 題目塔 (東新田)
- 馬頭観音 (小樽影山 98番)
- 五味通り、五味康祐旧宅
- 藤沢周平旧宅
- 力持ち惣兵衛の馬頭観音 (登録番号無し)、老舗和菓子屋あわ家惣兵衛本店
- 大泉学園都市
- 風致地区
- 馬頭観音 (長久保 99番、100番?)
- 地蔵堂馬頭観音(長久保 101番)
小榑村 (こぐれむら)
現在の西大泉、南大泉、大泉学園町の地域はは江戸時代には小榑村だった。1889年 (明治22年) の 町村制施行に伴い、明治の大合併が起った際に、小榑村と橋戸村が合併し埼玉県新座郡榑橋村 (くれはしむら) となり、小榑村は消滅している。小榑村の由来については諸説ある。榑 (ふ) は神木、クレは山出しの木材のことで、美称のコやヲを付けてコグレともヲグレとも呼ばれていた。別の説では高句麗 (こくり) に由来し、古代朝鮮からの渡来者に関係する地名ともいう。近くの地名の白子、新倉、志木も渡来者に関わる名称と言われている。
新編武蔵風土記稿には小榑村の小名として堤村、小作 (おざく)、榎戸、中島、水溜(みずったまり) が記されている。蔵国郡村誌では前新田、四面塔 (しめんとう = 堤村)、経塚、広沢とある。新座郡各村字届書には、小字が75も記載されている。
- 堤村は西大泉2・5丁目一帯をいう。現在は暗渠となったが大乗院の前を西から東へ川が流れていた。堤村はその川の北側段丘面にあたる。稲荷神社の前に1716年 (享保元年)、堤村講中造立の四面塔題目碑が建つ。神社も通称四面塔稲荷という。地名の起こりは四面の石塔があったばかりでなく、ここが四辻なので四面道 (しめんどう) といったのがはじまりと思われる。
- 小作は堤村の北、西大泉5・6丁目の新座市との境でコサクともいう。サクは地名の久保と同じ意味で使われる。
- 榎戸は大泉第六小学校辺り。戸は処 (ところ) のト。目印になるような榎の木があった所と推測される。
- 中島のシマは川端の低地にできた耕地のことで、大泉村時代に村役場があった。そばに中島橋がある。
- 水溜は南大泉2・3丁目付近。低地なのでいつも雨水が溜り、細い流れとなって井頭池へ通じていた。
- 前新田は水溜の南で関村と接する。
- 経塚は妙福寺が天台宗から日蓮宗に改宗のとき、経典を埋めたという伝説の地。
- 広沢は村の北、他村にわたっての総称。
大泉学園町
大泉学園町は練馬区の北西部に位置し、街路樹や緑の公園の多い閑静な住宅街となっている。
大泉学園町は練馬区の西北端に位置し、町の面積は区内最大。古くは小榑 (こぐれ) 村に属していた。 小榑村と橋戸村が合併した榑橋村は、1891年 (明治24年) に、新倉村字長久保、東京府北豊島郡石神井村大字上土支田と合併し、東京府北豊島郡大泉村が成立している。村役場は現在の中島児童遊園の所に置かれていた。関東大震災直後、箱根土地株式会社 (後のコクド) がここに一大学園都市を開発しようと計画し、碁盤の目のように整備した土地を売り出した。1932年 (昭和7年) に板橋区成立のとき、大学誘致の計画があったので、大泉学園町と名付け、東大泉駅 (旧 大泉駅) の駅名もを「大泉学園駅」に改めた。しかし大学誘致も、住宅開発も計画通りにはいかなかったが、東京市は付近の山林を借りて開墾し、レジャー農園の市民農園 (現在の大泉公園の場所) を開設し、一時は大いに賑わった。都民農園のバス停はその名残りで、駅前からの桜並木もそのころ植えられている。
学園都市建設がきっかけとなり、1932年 (昭和7年) にそれまでの大泉村の大字小榑字前田、字西本村、字南荒屋敷、字荒屋敷、字北荒屋敷、字大田町、字立ノ山、字少納言久保、字少納言久保後、字御朱印前、字東本村、字西新田、字東新田、字西仲置、字東仲置、字栗林、字影山、字東笹久保、字西笹久保、字山守山、字西上、字檜並、字長久保前、字影山後、字東長久保、字北臺、字雨沼久保、字西長久保、字南雨沼久保、字西雨沼久保、字長沼、字久保原、字南長久保を分離して大泉學園町を設置している。大泉学園都市は昭和初期から売りだ出されたのだが、肝心の大学は誘致できず、戦前の地図を見ると、この学園都市用地には民家はほとんどない。大泉学園駅も遠く、この時点では学園都市構想は失敗と考えられていた。1941年 (昭和16年) に学園都市の北側、朝霞(旧キャンプ朝霞南地区)に陸軍予科士官学校が開校され、表門が東京側の大泉学園町にでき、戦後、米軍基地 (キャンプ・サウス・ドレイク) として接収され、その後、1952年 (昭和27年) に返還され警察予備隊が入り、1954年 (昭和29年) には陸上自衛隊の朝霞駐屯地になっている。1973年 (昭和48年) に駐屯地の一部返還され、各種の教育施設や公園が造られて、町は急成長を遂げた。
大泉学園町の人口が増加し始めたのは、戦後からで、1950年代、1960年代には毎年二桁の増加が続いている。1979年には1956年から人口は10倍にまでなっている。その後も人口は増加は続く。1980年~1982年に住居表示が実施され、大泉学園町一丁目 ~ 九丁目となっている。この際に、旧北大泉町、東大泉町、南大泉町の一部を編入、旧大泉学園町の一部は大泉町三丁目、西大泉三丁目へ編入されている。2000年以降は戸数は増加を続けて入るが、少子化の影響もあり横ばい状態になっている。近年は人口は微減傾向に変わっている。旧大泉学園町は、
練馬区史 歴史編に記載されている大泉学園町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 法性院、善行院
- 神社:
- 庚申塔: なし 馬頭観音: 9+1基
まちづくり情報誌「こもれび」- 大泉学園町
大泉学園町 訪問ログ
法性院 (ほっしょういん)
かつての伽藍は、19世紀前期に建てられた平屋建建物は老朽化でトタン屋根になっており、雨漏りも酷く、1966年 (昭和41年) に鉄筋コンクリート造に改築されている。入り口には題目塔 (写真右上)、境内には慈母観音像 (左下) が置かれていた。
善行院 (ぜんぎょういん)
旧大泉村役場跡
善行院から白子川まで南に進んだ所が大泉学園町の南端になり、大泉中島公園がある。ここにはかつては大泉村の役場が置かれていた。小榑村 (埼玉県新座郡) は1889年 (明治22年)の町村制施行で橋戸村と合併して榑橋村となり、1891年 (明治24年)に榑橋村は、東京府北豊島郡に編入され、石神井村大字土支田 (東大泉) と新倉村長久保を合併して大泉村が誕生している。当初、この大泉村の役場は本照寺に隣接する村長宅に設けられましたが、1922年 (大正11年) に木造2階建ての村役場が建てられ、1932年 (昭和7年) に板橋区が成立するまでは大泉村の行政が行われていた。その後、旧役場は信用組合 (JA大泉) や福祉事務所などの公共施設として利用されたが、1979年 (昭和54年) に老朽化のため取り壊され、跡地は大泉中島公園となっている。公園の前には平和記念之碑が建てられている。戦没者の慰霊碑で、第二次世界大戦で亡くなった多くの人の名が刻まれている。
馬頭観音 (太田町 未登録)
善行院まで戻り、その前の道を少し北に進んだ交差点の角のブロック塀に入り込んだ所に馬頭観音が置かれている。練馬区史歴史編には載っていない。練馬この場所は小名の新屋敷と西本村に接する太田町の境にあたる。角柱型の馬頭観音塔で、1922年 (大正11年) に加藤家によって造立され、正面に「馬頭観世音菩薩」と刻まれている。
馬頭観音 (荒屋敷 登録番号無し)
太田町の馬頭観音の南側の道を西側に進んだところの小名の荒屋敷にも馬頭観音がある。ここもブロック塀を凹ませて馬頭観音を置いている。この馬頭観音は1885年 (明治18年) にこの家の住民 (加藤家) により造立されたもので、 正面には「南無馬頭観世音」と刻まれている。
加藤家大けやき
荒屋敷の馬頭観音から大泉学園通りを渡り東に少し進むと民家に前に大きなけやきの木が聳えている。地域のシンボルとなっているそうだ。この民家は加藤家になる。この地域には加藤さんが多い。江戸時代には南大泉に有力旧家に加藤家本家があり、その一族がこの地域に広がっていった。
馬頭観音 (東新田 69番、97番)
加藤家屋敷から大泉学園通りに出て、北に向かう。この大通りは関東大震災の後、1924年 (大正13年) に箱根土地株式会社が、当時の大泉村北部に学園都市の開発計画を立て土地を買収し、東大泉駅 (現在の大泉学園駅) を造り、武蔵野鉄道に寄贈、学園都市予定地へ幅約13mの道をまっすぐに朝霞膝折まで整備した。当時の写真が残っている。写真左下は1938年 (昭和13年)、右下は1956年 (昭和31年) でまだまだ住宅街の片鱗すら見えない。
郵便局を過ぎた五差路の角に二基の馬頭観音が置かれている。この辺りは東新田と西新田の境界になる。向かって左の馬頭観音 (97番) は自然石を利用して1924年 (大正13年) に造立されたもので、正面上部に妙法、その下に馬頭観世音と刻まれている。道しるべも兼ねており、下部に「南 堀之内道 北 白子道」と刻まれいる。右側は小ぶりの方形文字型馬頭観音 (69番) で1924年 (大正13年) に造立され、道しるべになっていたそうで、文字は磨耗し読みにくいのだが「南 ほりのうち道 北 白子道」と刻まれていたそうだ。二つとも加藤家が建てている。この地域の馬頭観音は殆どが加藤家によるもの。
石仏群 題目塔 (東新田)
馬頭観音から大泉学園通りを少し北に進むと東新田の商店街の中に石塔や石仏が集められた場所があった。三体の地蔵尊と燈籠は新しく建てられたもので、1973年 (昭和48年) 造立の平和観音、1972年 (昭和47年) 造立の交通安全地蔵、1978年 (昭和53年) の光背型水子地蔵が置かれている。中央には石塔が建っている。これだけは古く1802年 (享和2年) に造立されたもので正面には「南無妙法蓮華経」と刻まれている。この地域で信仰が広まっていた法華宗 (日蓮宗) の供養塔の題目塔だ。これらも全て加藤家が建てたもの。
馬頭観音 (小樽影山 98番)
馬頭観音 (東新田 69番、97番) から東側の住宅街に入った所に影山の森緑地の公園がある。この辺りは小樽影山という小名で、旧小榑村の東端になり、旧橋戸村 (大泉町) の橋戸影山に隣接している。公園のフェンス沿いに馬頭観音が置かれている。1908年 (明治41年) に造立されたもので、正面には「南無妙法蓮華経」とあり、馬頭観音としては珍しい。その下に「真一切功徳慈眼視衆生 奉勧請馬頭観世音菩薩 福界海無量是誠應頂禮」とあり、馬頭観音菩薩の文字が見られる。この地域の日蓮宗の影響が強かった事が伺える。これも加藤家が建てたもの。
五味通り、五味康祐旧宅
東新田から北は明治時代までは民家は殆どなく、一面畑だった。ここに大泉学園都市が造成され、住まいを移した著名人も多い。その一人が柳生武藝帳や眠り狂四郎など時代小説で有名な五味康祐で、旧宅があった道は五味通りと呼ばれている。1956年 (昭和31年) から肺ガンで死去逝去する1980年 (昭和55年) までこの地に住んでいた。1965年 (昭和40年) に人身事故を起こし、この後は執筆をやめ、この家に閉じこもり、寂しい余生を送ったそうだ。
藤沢周平旧宅
もう一人は、これも時代、歴史小説の巨匠の藤沢周平。1997年 (平成9年) に亡くなるまでの約20年間、この地に住んでいた。エッセイ集の「冬の散歩道」で当時に様子が描かれているそうだ。
力持ち惣兵衛の馬頭観音 (登録番号無し)、老舗和菓子屋あわ家惣兵衛本店
大泉学園通りを少し北に進んだ所にあわ家惣兵衛本店の和菓子屋があり、その店先に馬頭観音が置かれている。力持ち惣兵衛の馬頭観音と呼ばれているものだ。風変わりなもので、力石が馬頭観音として祀られている。1840年 (天保11年) に造立されたもので、最大長が50cmの河原石で、正面中央に「馬頭観世音」、その両脇に「当知是処即是道場」、「天保十一庚子天(1840年)九月⬜︎日 加藤惣兵衛」とある。惣兵衛さんも加藤だ。背面には「七十六秤目」と刻まれている。約285kgなので力石としてはかなりの重量だ。
力持ち惣兵衛についてはいくつかの伝説がある。
その昔、小榑村(現:練馬区大泉学園町)に惣兵衛という力持ちがおりました。
惣兵衛がある武家屋敷へ出向いたある日のこと…。
惣兵衛が力持ちであることをかねがね聞いていたその屋敷の主人は、それを試す為に惣兵衛を庭の中に呼び入れ庭石の一つを指さし、「もし持ち上げる事ができた時は、褒美にその石をやろう」と言いました。惣兵衛は、もろ肌をぬぎ 満身の力を込めて何十貫ともあろうその大石を見事高々とさしあげました。主人はたいそう驚き約束通り大きな石と沢山の褒美を取らせ その力を褒めました。
惣兵衛は喜び、それら褒美の品を馬に背負わせ帰りました。
しかしその途中、惣兵衛の愛馬は品々の重みに疲れ息絶えてしまいました。
惣兵衛はとても悲しみ、庭先に馬頭観音を祀り、力と優しさを持つ本当の力持ちとなりました。惣兵衛の愛馬が祀られた馬頭観音は、練馬区西大泉町にありましたが、
現在は、力持ち惣兵衛の名前の由来となった老舗和菓子屋あわ家惣兵衛の本店がある、練馬区大泉学園にその場所を移し、改めて祭事を行い、惣兵衛の馬頭観音は大切に祀られております。
あわ家惣兵衛と力持ち惣兵衛の関係は分からないが、この店では「惣兵衛最中」と言って、惣兵衛が大きな石を持ち上げ褒美としてもらった銭をモチーフに、銭の穴を形どった四角い、最中の中には銭字で「惣兵衛」と彫り込んだもなかを売っている。
大泉学園都市風致地区
大泉学園都市に住宅街の中に風致地区公園がある。西武の創業者堤康次郎の箱根土地株式会社 (コクドの前身) は鉄道と住宅地をセットにしたビジネス戦略の一環として、1922年 (大正11年) に分譲していた目白文化村に続いて、この地に330万㎡ (1万坪) の広大な土地を買収し、1924年 (大正13年) から開発を始め、大泉学園駅を建設し、武蔵野鉄道 (その後 西武池袋線) に寄付し、道路、上下水道、電灯を敷設し、東京高等師範学校 (現 筑波大学) や東京第一師範学校 (現 東京学芸大学)、東京商科大学 (現在 一橋大学) の誘致という謳い文句 (実際には堤康次郎が企てた空手形だった) で碁盤目状の区画を持つ住宅の大泉学園都市として、洋館のモデル住宅を30軒建て、分譲を開始した。一橋大学が大泉ではなく保谷に移転することになった事で販売状況は良くなく、戦時中までは半分が畑のままだった。戦後、昭和30年 (1955年) 代になると再び住宅地として人気を増していき、2000年初頭には、成城や田園調布に匹敵する金持ちが多く住む町だったが、現在はその栄華は去り、現在のような一般人中心の静かな住宅地となっている。
この地は昭和8年に都市の風致 (自然的景観) の維持の目的で風致地区に指定されている。練馬区ではこの地と石神井風致地区の二ヶ所が指定されている。住環境向上維持のため、新たな開発や建物の規定があり、パチンコ店や風俗店などは営業はできない。並木道や公園が各所に設けられている。この風致地区内にある公園の一つが風致地区公園だが、何故この様な名前にしたのだろうか? 風致とは「趣き」を表しており、庶民にとってはこの「風致」は特別な響きがあったのだろう。プチブルジュアといった感覚があったのではも思われる。この公園では地域住民のイベントなどが行われている。
風致地区内は住宅街、商店街は古くレトロ感が出ている所もあるが、通りは整備されており、並木道は感じが良い。写真上は長久保の欅並木道。下は住宅街の中の四本松だが、今は二本しか残っていない。
馬頭観音 (長久保 99番、100番?)
大泉学園都市の北東部は長久保という小名があたる場所になる。この北側には自衛隊朝霞駐屯地が置かれている。(明治22年) の町村制施行で小榑村と橋戸村は合併し榑橋村となり、(明治24年) に埼玉県新座郡に属していた榑橋村とこの場所の新倉村の長沼、久保原、長久保 (大泉学園町8丁目の一部と9丁目) が東京府に編入、石神井村大字上土支田と合併、大泉村が成立している。
先日訪れた別荘橋を通る都道108号線がここに通じている。かつての長久保道に相当する。この道の大泉学園八丁目交差点の南に二基の石塔が置かれている。向かって左は馬頭観音 (99番) は以前は地中に深く埋まっていたものを掘り出したもの。1799年 (寛政11年) に武州新座郡下新倉新田 念佛講中十人によって造立されたもので、正面には「馬頭観世音菩薩」と刻まれている。道標を兼ねており、「右 子権現道」「左 大山道」とある。右にあるのは燈籠の台座石で燈籠本体は失われている。1807年 (文化4年) に武刕新座郡下新倉新田 観音経 講中 拾三人により造立され、燈籠右面には阿夫利神社、左面には伊▢神社とある。練馬区史歴史編ではこの場所には馬頭観音 (99番) と台座だけ残っている馬頭観音 (100番) があるとなっている。台座の造立年月は燈籠台座と一致している。この台座はどう見ても燈籠台座なので、練馬区史歴史編の間違いか、それとも別の馬頭観音台座があるのだろうか?
地蔵堂
長久保道を北に進むとかつての新倉村の小名 長久保の中心地になる。道の角に地蔵堂が置かれ、中に三体の地蔵菩薩像が安置されている。向かって左から、舟型の地蔵菩薩 (写真左下) は1797年 (寛政9年)、中央は摩耗が激しく年代不詳、右は1969年 (昭和44年) に造立されたもの。
馬頭観音(長久保 101番)
長久保の北側は大泉中央公園が造られている。東京都と埼玉県の境になる。公園の南側の西武バス駐車場の道路脇に馬頭観音(101番)が置かれていると資料にはあった。現在は西武バス駐車場はなくなり、一般自動車の駐車場に変わっている。馬頭観音も見当たらず、撤去されたようだ。以前置かれていた時の写真 (写真下の2枚) がある。資料ではこの角柱型馬頭観世音は1832年 (天保3年) に造立されたもので、右側面には「上新倉村 富五郎 子ノごんげん道 下小槫村 甚蔵」、左面には「大山道 下新倉村新田」と刻まれていたそうだ。
これで今回の東京滞在の3日目が終了。心配していた足の痛みは自転車で移動しているぶんには感じない。今回の旅行はまだ後一ヶ月あるが、なんとかなりそうだ。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
- 練馬の伝説 祖先の足跡 (1977 練馬区教育委員会)