マラソン
マラソン
Marathon
2005年6月20日 新宿厚生年金会館にて(試写会)
(2005年:韓国:117分:監督 チョン・ユンチョル)
障がい者を描いた映画というのは結構たくさんあって、ある意味、俳優の真価が問われてしまうという所があります。
『ギルバート・グレイプ』のレオナルド・ディカプリオ、『ウィズ・ユー』のケビン・ベーコン、『アイ・アム・サム』のショーン・ペン・・・などなど他にもたくさんあるでしょう。知的障がい者になると、ワーズワースの言葉で言うとidot is innocent、つまり子供の純真さを失わない大人というとらえ方が多いかもしれません。
日本では『1リットル涙』の大西麻恵なんてとても感心してしまったのですが、日本だとこういう福祉的な内容だと「福祉かくあるべし」のような美談のオブラートに包んで理想でねじふせてしまう傾向があります。そうでないとお客さん、映画観てくれない。
福祉は「必要なもの」ではなく、「イヤなもの、目をそむけたいもの」というネガティブなイメージというのがべったり張り付いているのを感じてしまうのです。『AIKI』という映画は、そんな中でも異色の型破りな所があったのですが、全く話題になりませんでしたなぁ。
しかし去年の韓国映画『オアシス』は、凄かったです。ムン・ソリ演じる脳性麻痺の女性・・・その現実をここまでシビアに描いてもファンタジックな恋愛映画にしてしまう力技を感じました。
主人公のチョウオンという20歳の青年は自閉症で、感情を表現することが出来ない、また周りの感情を理解することが出来ない・・・体は20歳でも精神は5歳のまま。
しかしマラソンが得意であることから、42.195キロのフルマラソンを2時間台で完走した、という実話を元にしています。
登場人物はチョウオン、その母、弟、マラソンのコーチ・・・と意外と焦点あてられる人物少ないです。
ほとんどチョウオンといってもいいくらいで、この役を完全に演じきった、チョ・スンウ、凄いです。目と口と手と体の向きがばらばらな状態がずっと続いてしまうのを見事に「体現」してしまっていて、今までの『ラブ・ストーリー』『エイチ』の役とはがらりと違った役に体当たり。
おとなしいけれど、表情に乏しいチョウオンがちょっとした笑顔を作るだけで大変な演技力を必要とされていたのではないかと思います。
チョウオンの面倒を必死にしている母が、痛いです。チョウオンばかり構うので弟は(当然ながら)気に入らない、反抗的、父は家に寄りつかない、母、髪の毛を振り乱してチョウオンの為に、走り回る。しかし、母の心の中にあるのは「疲労」だけ。
そんな苦しさの出し方が上手いです。いい加減なコーチではありますが、疲労を訴える母の中にあるエゴイズムには、冷静な言葉を投げつける。
残酷なようでも事実であることを、母がだんだん認めていくという話でもあります。
見知らぬ人には近づけないチョウオンとコーチとのちょっと頓珍漢なやりとりや、言われたら言い返すわよ!の母の強さ、チョウオンの純粋さ、そういった色々なエピソードの積み重ねがとてもスムーズで変な「かくあるべし」が感じられません。
映像はラストにかけてのマラソン大会のシーンや、チョウオンが走りながら風を感じる表現などとても綺麗です。
自然の美しさが強調されていて、透明感のある映像。マラソンでチョウオンにお菓子を渡して走り去って行く女性の所などとてもファンタジックです。
現実の辛さをそのまま描いてしまうのではなく、映像やエピソードや脚本でひとつの美しい映画にしている・・・という良さがあります。
ただし、確かに感動的なシーンはあるのですが、押しつけがましくないので、宣伝で「号泣、号泣」と謳っていても、泣きたい人が必ず泣けるとは思いません。
もともと、「泣ける映画=良い映画」ではないのですから。
しかし、泣けるというのは、ひとつの褒め言葉になってしまっています。
テレビの食べ物番組で、「やわらかい」を連発するように・・・「やわらかい=美味しい」ではないのですが、肉でも野菜でも、やわらかいは褒め言葉になってしまっているのと同じかと。
今の日本人はそんなに泣きたいのかな・・・でも厳しい現実は見たくないんだよね。贅沢言っちゃってるなぁ。