埋もれ木
埋もれ木
2005年6月28日 渋谷シネマライズにて
(2005年:日本:93分:監督 小栗康平)
「映像」と聞くと、映画なんか観ている自分には、無意識に「動画」って思ってしまうのだなぁ、と某所の指摘を読んで、ハタと気が付きました。
映像というのは、動画だけでなく、絵画、写真、静止画も含むわけです。
そういう意味でこの映画はとっても「映像的」な映画。
動いているものだけでなく、映画に出てくる風景や人々や物や写真が色々な映像という方法で、上手く作られているのがわかります。
観ている間は、詩のような、どこからか綺麗な声で歌う歌がかすかに聞こえてくるような気持ち良さにひたっているだけなのですが、特に後半になって出てくる象徴的な「絵」の数々の美しさには目から鱗が落ちるよう。また冒頭は尾形光琳の絵がバックにあり、次に少女達が読んでいる漫画に切り替わる・・・古いから新しいものへの転換の早さ。
土砂崩れで出てきた太古の樹木、埋もれ木の不動さ、灯籠祭りに浮かぶ赤い馬や風船をつけたくじらの灯籠の軽さ、トラックに大きく描かれた浮世絵(歌川国芳)のくじらの絵がアスファルトの水たまりに映ると、まるでくじらが海に泳いでいるような一瞬の動きの絵をとらえる。
日本の古いものと新しいもの、見てきたものと、見えているもの、見えないもの、これから見えるもの・・・そんなものが様々な方法を使った絵になって出てくるようです。
写真館に入った少女は、古い記念写真を見て「記念写真っていいね。みんなが同じ所を見ている。」と言い、夜の校庭でトンパ文字で地面に「夢」という意味を持つという古代文字を書いてみせる。
そんな風景の合間には、赤いアメ車を乗り回す遊び人、三ちゃん(浅野忠信)たちが入ってきて、商店街のおじさん、おばさんたちは、そんな若者たちを気にしないかのようにマイ・ペースで世間話をする。
三ちゃんの後ろ姿、大きな背中のアップがまた言葉で頼らなくても、遊び人だけどなんかいい人、懐の大きな人、可愛い人、頼りになる人そんなお人柄を一瞬で、見てしまう、これも「絵」
誰の真似でもない、そして誰も真似出来ない世界・・・かといって奇想天外な風景ではなくあくまでも普通の山や町の姿、現実的でファンタジック・・・ファンタジーというのは「わかりやすいもの」ではなくて「やわらかいもの」なんじゃないかと思います。
少なくともこの映画のファンタジー性というのはとても透明でやわらかく自然なもの、としてとらえられています。
ストーリー性は排除しているけれど、非現実的に走らず、現実と非現実の合間にある「ファンタジー」を静かに魅力的な絵にする、そういう技量にひたすら身をまかせることの出来る至福の時間。