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練馬区 23 (18/10/23) 小榑村 (3) 西大泉

2023.10.18 14:35

小榑村 西大泉



昨日は練馬区めぐりは休止して、東京都心にある病院で定期健診だった。今日から練馬区めぐりを再開。残りも少なくなってきたので、今日と明日で終了するだろう。



小榑村 西大泉

西大泉は練馬区の北西部に位置し、北は埼玉県新座市野寺、片山、東は大泉学園町、南は東大泉、南大泉、西は西東京市下保谷、北町にせっしており、主に住宅地や農地となっている。

現在の西大泉はかつては旧新座郡小榑村の一部で、江戸時代初めには幕府直轄領だった。1703年 (元禄16年) に村高の半分の730余石を武州久喜藩主米津出羽守に与え、幕末までその知行下にあった。

小榑の「榑」は山出しの木材や薪のことで、この地ではそうした作業を行っていた事で付けられた地名と考えられている。他の説では、クレは「呉」に通じ、帰化人に関係あるとする。758年 (天平宝字2年) に新羅の帰化僧達を武蔵国に移し新羅郡を置き、後に新座郡となった。座は「ザ」とも「クラ」とも読み、隣接する埼玉県新座市や和光市新倉の地名もこれに関係していると考える。同じように、小榑は「ふるい (古い) クレ」を意味したという説だ。

小榑村は1889年 (明治22年) に橋戸村と合併して榑橋村となっている。榑橋村は1891年 (明治24年) に東京府へ編入された際に大泉村となり、1932年 (昭和7年) には5町に分かれて、この地は西大泉町となった。1981年 (昭和56年) の住居表示実施で、西大泉 (1丁目~6丁目) となったが、新座市片山の中に練馬区の飛地が西大泉町として残っている。戦前までは江戸時代からの集落の形はほとんど変わっていない。民家が増え始めたのは、戦後からになる。

人口の増加が著しくなったのは1950年代後半と思われる。1965年までは毎年20%から30%の増加があり、1970年には1956年に比べて10倍まで膨れ上がっている。その後も、増加率は低下してはいるが、順調に増加し、2010年以降は横ばいか微増となっている。世帯数は今でも増加傾向にある。1981年 (昭和56年) の住居表示実施で、西大泉一丁目~六丁目の構成に変わっている。

埼玉県新座市片山にあった約30m×60mの飛地部は住居表示がされずに「西大泉町」のまま現在に至っている。西大泉六丁目から僅か100m程の所にある。当時は僅か8世帯17人しか住んでおらず、2015年に新たな住宅が建設され、現在では14世帯33人の地域になる。飛地が生じた経緯については練馬区も新座市も把握しておらず、1974年に住宅が建つまでその存在すら把握していなかったそうだ。行政の手続きの漏れの産物と推測される。行政サービスでは上下水道、電気は新座市、ゴミの処理、学校区は練馬区の管轄になっている。練馬区としては新座市へ編入する方針なのだが、特に住民の不満も陳情もなく、そのまま放置状態になっている。



練馬区史 歴史編に記載されている西大泉内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 本照寺、大乗院
  • 神社: 諏訪神社、東伏見神社分霊、四面塔稲荷神社
  • 庚申塔: なし  馬頭観音: 4基 (内1基は旧番地で示されており、現在の町番地は図書館でしあわからないので未訪門)


まちづくり情報誌「こもれび」- 西大泉


西大泉 訪問ログ



本照寺

先日訪れた大泉村役場跡の大泉中島公園すぐ西の白子川の北に寺がある。この寺も日蓮宗寺院で了光山本照寺という。本照寺は、日勇上人が1582年 (天正10年) に創建したと伝えられている。本山は身延山久遠寺 (旧中山法華経寺) で、昔から中山の隠居寺といわれていた。明治時代には、小榑村の役場、1889年 (明治22年) 以降は榑橋村の役場、1891年 (明治24年) 以降は大泉村の役場として1922年 (大正11年) に現在の大泉中島公園の場所に村役場が移るまで役場として使われていた。


題目塔

山門の前左手にはいくつもの石柱や地蔵尊が置かれている。中央の大きな3つの石塔は1750年 (寛延3年) 造立の題目塔 (左下端)、隣りにはの背の高い角柱は1922年 (大正11年) の遠忌供養塔 (下左から2番目) で開山僧の日勇聖人を供養している。その右は1780年 (安永9年) の題目塔 (下右から2番目) で日蓮の五百遠忌供養塔になっている。


子育地蔵

山門をくぐると左に子育地蔵がある。比較的新しく1932年 (昭和7年) の造立になる。


馬頭観音 (92番) 

本堂前に方形文字型の馬頭観音 (92番) が置かれており、これも加藤家一族によって1928年 (昭和3年) に造立されている


諏訪神社

本照寺の北側に諏訪神社がある。創建年代等は不詳だが、元々は、先に訪れた本照寺に関係した日蓮宗の三十番神 (天照大神をはじめとする三十柱の神が一ヶ月 (三十日) 日替わりで本尊を務める) を1582年 (天正10年) 前後に勧請して本照寺の直ぐ北側の小名 中島、清戸道の北に創建され、三十番神社として小榑村の鎮守となっていた。明治時代の神仏分離令により、三十柱の番神のなかでもこの地に特に縁の深かった建御名方命を信州諏訪神社から勧請して、諏訪神社と改称している。明治末頃に現在地に移っている。現在でも社殿には、かつての祭神だった三十番神の三十体の神像が安置されており、古くからここに住んでた人々は「番神さま」と呼んでいるそうだ。長い参道には二つの鳥居が建てられている。1915年 (大正4年) に建てられた一の鳥居を入ると巨木が立ち並んでいる。

二の鳥居を潜ると社殿改築記念碑がある。

参道を進み境内に入ると、燈籠と水盤が置かれている。

境内奥には梶ノ葉 (四本足) 権現造りの社殿が置かれている。この社殿は1913年 (大正2年) に落成したもの。先程の社殿改築記念碑はこれを記念して建てられた。

境内には昭和46年に建築された水屋、神楽殿、昭和59年に建築され太鼓庫屋、社務所が置かれている。

境内には宇迦御魂命を祀る稲荷神社がある。諏訪神社の参道と平行して別の参道がある。この稲荷神社へは参道入り口と社殿前に二つも鳥居が置かれて格別な扱いがされている。この社は神仏分離後、1911年 (明治44年) には村内の散在していた8つの無格の稲荷神社 (経塚・榎戸・西中前新田・前新田・大前新田・中島俊・水入久保上・西前田) を合祀したもの。

拝殿には多くの絵が掲げられており、そのなかには狐が練馬大根を収穫する様子の「狐の大根取り入れ」の絵馬がある。稲荷様の眷属である狐を擬人化した独特の絵柄で貴重なもので、ここにあるのはそのレプリカになる。また、として知られています。参道脇には1857年 (安政4年) の水盤が置かれ、神社の中では最も古いものだそうだ。

稲荷神社の隣には末社の御嶽神社もある。


馬頭観音 (未登録)

諏訪神社照の西の都道24号線 (練馬所沢線) を渡り、西に道を入ったところはかつての小名 唐澤で、民家の前には馬頭観音が置かれている。1921年 (大正10年) に造られたものだが、かなり摩耗が進んでいるが、正面には馬頭観世音と刻まれている。


東伏見神社分霊

都道24号線 (練馬所沢線) に戻り、道を北に進む。大泉西中入り口交差点で、道は二股に分かれる。都道24号線から外れ、もう一つの道を少し北に進んだ所に、祠が置かれている。近隣の住民が、東伏見神社から分霊を奉迎したものだそうだ。この神社の詳細は見つからなかったが、奉納者がこのあたりの商店となっているので、商店街の住民が商売繁盛を祈願してつくったのではないか?


四面塔稲荷神社

都道24号線に戻り、北に進み四面塔稲荷神社前交差点を渡った所に四面塔稲荷神社がある。この地域は小名の堤村だったので、堤稲荷、近くに題目塔の四面塔があったので四面塔稲荷とも呼ばれている。四面塔稲荷神社の創建年代等は不詳だが、江戸時代初期頃から祀られていたと伝わる。円福寺 (現在の大乗院) 持で、祭神として宇賀御魂命を祀っている。先に訪れた諏訪神社/稲荷神社で触れたのだが、明治44年に小榑村の各部落に置かれていた稲荷神社は先程訪れた諏訪神社に合祀されることになったのだが、他の八部落は同意し合祀したが、この堤村は合祀を拒んだ事で今でも残っている。

境内はだだっ広く、ここで祭りが行えるスペースになっている。片隅に井戸があり、その横に清戸道道標が置かれていた。そこに面した道がかつての街道の清戸道になる。

社殿は拝殿、幣殿、本殿から成り、拝殿奥の1865年 (元治2年) に建てられた本殿は一間社流造り、銅板葺きの小祠で、彫刻が随所に施されている。覆屋内にある本殿は「西大泉の稲荷神社本殿」として練馬区有形文化財に登録されている。その後、1919年 (大正8年) から1925年 (大正14年) にかけて増改築されている。翌年にその社殿改築記念碑が境内に建てられている。拝殿前の狛狐は台座は古いのだが、狐像は新しいものだったが、社殿改築記念碑の場所に昔の狐像が無造作に横たわっていた。

幣殿の奥に本殿がある。鞘堂の中に置かれている。

境内には末社として御嶽神社が置かれている。ここにも山岳信仰が広がっていたのだ。


常勝院

四面塔稲荷神社から大乗院へ向かう途中に寺があった。常勝院と書かれている。何宗なのかと調べても、全く情報が出てこない。入り口にポスターが貼られていた。大川隆法の幸福の科学の映画だ。この寺も幸福の科学に布教所なのだろう。


大乗院、馬頭観音 (90番)

道を進み大乗寺に到着。ここも日蓮宗の寺で新井山大乗院円福寺といい、日讃上人 (1382年 永徳2年没) により創建されたと伝わっている。江戸時代には、西中山妙福寺の末寺頭で、関宿藩久世大和守の祈願所となっており、格式の高い寺だった。この地は小榑村の小名 荒井だったので山号を新井山としたそうだ。参道入り口の左には題目塔、右には1878年 (明治11年) に造立された方形文字型馬頭観音で道しるべも兼ねていた。

参道を進むと1752年 (宝暦2年) 建立の山門がある。明治40年に火災が発生したがこの山門は免れて残った史跡になる。境内に入ると手水舎が置かれ、墓地側には歴代住職の墓が置かれている。

境内奥に本堂が置かれている。明治40年に、火災により山門以外、本堂、庫裡、祖師堂、七面堂などが灰燼に帰したが、その後、昭和53年に本堂が新築されている。境内には帝釈堂 (右下) があり、柴又帝釈天題経寺の帝釈天の分身である帝釈天王像が祀られ、庚申の日には帝釈天例祭が行なわれている。


西大泉町

西大泉の北は埼玉県新座市片山になる。片山三丁目が西大泉と接しているのだが、片山三丁目の中に西大泉の飛び地があり、西大泉町となっている。僅か約30m×60mの飛地部で、西大泉六丁目から僅か100m程の所になる。今日訪れて、近侍の夫人と話をした。今は3世帯程が西大泉町に住んでいるそうだ。以前は西大泉町の子供は西大泉の小学校へ片山三丁目の子供は片山の小学校に通っていたが、西大泉の方が近いので片山三丁目の子供達は越境で西大泉の小学校に通っていたそうだ。行政サービスでは上下水道、電気は新座市、ゴミの処理、学校区は練馬区の管轄になっている。丁度練馬区のゴミ収集車が来ていた。練馬区としては新座市へ編入する方針なのだが、特に住民の不満も陳情もなく、そのまま放置状態になっているのだが、婦人の話ではやはり面倒そうだと言っていた。


大泉堀 (だいせんぼり)

今日は時間に余裕があるので、白子川の支流 (下保谷のシマッポ) だった大泉堀 (だいせんぼり) を走る事にした。大泉堀は、 西武池袋線ひばりヶ丘駅の南西付近を水源とし、下保谷窪地と呼ばれる浅い谷筋を東へ流れている4km弱ほどの川だった。下保谷天神社の西に坊ヶ谷戸があった大泉坊 (後に現在練馬区西大泉にうつり大乗院となったとの説がある) という寺院に由来して大泉堀と呼ばれていた。大泉堀は1971年~78年にかけて全て暗渠の歩行者道となり、周りは住宅街となって、かつての川の面影は無くなっている。コンクリートの板を川の上に並べている古い暗渠形式で自転車で走るとガタガタと走りにくい。白子川への合流地点 (写真 左上) から走る。途中、大泉第四小学校 (右下) で分断されていた。

大泉第四小学校の西から再開して、終点はひばりヶ丘駅の手前で、暗渠の遊歩道が終わっていた。


小泉橋

大泉堀にはかつては幾つもの橋が架かっていた。その橋の一つに小泉橋がある。明治22年に小榑村と橋戸村が、さらに24年に上土支田村が合併したことはたびたびふれた。三か村が一緒になるから、新しい村名はいろいろ意見があってまとまらない。最後に小泉村という案がでた。三つの村を平等に潤す白子川の源、井頭池からはいつも新鮮な泉が湧いている。それと一番大きい小槫村の一字をとって小泉村としたらというのである。だが、小泉はコイズミとも、オイズミとも読める、いっそ大泉村にということになったそうだ。その小泉の名が大泉堀の小泉橋の名がある。すぐ側の自動車道のしたみち通りには小泉橋交差点があり、名だけが残っている。


西大泉の史跡巡りを終えて、関町南へ移動する。関町南の訪問記は別途。



参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)