練馬区 21 (14/10/23) 小榑村 (1) 南大泉
小榑村 南大泉
- 妙福寺
- 日蓮宗法華結社
- 愛染稲荷
- 最上稲荷 (さいじょういなり)
- 馬頭観音
昨日が今回の練馬区散策の初日だったのだが、長い時間自転車で移動、自転車を停めて徒歩にて見学をした。訪問先が多くなってしまったせいか、今朝は痛めた足の痛みが激しくなっている。足の甲に痛みがあり、自転車での移動では痛みは殆どないのだが、徒歩での見学はビッコ状態で痛みがある。なるべく足に負担がかからないようにと、今日は史跡の少ない南大泉をめぐる。
小榑村 南大泉
南大泉は練馬区の西部に位置する。東部は白子川を境に東大泉、南部は富士街道 (かつてのふじ大山道) を境に石神井台、関町北、西部は西東京市富士町、中町、東町、下保谷、北部は西大泉とそれぞれ接している。域内の南東から北西へ旧早稲田通り (かつての所沢道) が縦貫し、北部を保谷街道が東西に横断している。保谷駅周辺などに商店が見られる他は、主に住宅地として利用されている。
南大泉は旧小榑村の最南に位置し、東を井頭池から発する白子川で上土支田村と接した武蔵国新座郡小榑村の一部だった。江戸初期の小榑村は天領だったが、1703年 (元禄16年)、村の半分が大名米津家に給され、この辺は米津領だった。
1889年 (明治22年) の町村制施行にともない、小榑村が橋戸村と合併し、埼玉県新座郡榑橋村となり、更に1891年 (明治24年) に榑橋村は上土支田村が合併して東京府に編入され、東京府北豊島郡大泉村となっている。新しい村名は様々な意見があり、まとまらず、最終的に三つの村を潤す白子川の源である井頭池の泉と小槫村の一字をとって小泉村と決まったのだが、小泉はコイズミとも、オイズミとも読め、いっそ大泉村にということになった経緯がある。現在も白子川の支流で暗渠になっている大泉堀に小泉橋の名が残っている。
1932年 (昭和7年)、東京府東京市板橋区成立にともない板橋区南大泉町となり、1947年 (昭和22年) に板橋区から練馬区が分区したことにともない、東京都練馬区南大泉町となる。1981年 (昭和56年) の住居表示実施により、南大泉町と西大泉町の一部が東京都練馬区南大泉一丁目から五丁目となった。更に、1986年 (昭和61年) の住所表示実施により、南大泉町の残余と、西大泉町の一部が東京都練馬区南大泉六丁目となって現在に至っている。年代毎の地図を見ると、明治時代から戦前までは以前からの集落の位置や規模には大きな変化が無い。民家が増えていったのは戦後の復興期と高度成長期になる。
人口の推移にもそれは現れている。1955年~1973年までの高度成長期の人口増加は顕著で1966年までは前年比で二桁の増加率になっている。1980年から2001年までの人口データは入手で来ておらず不明なのだが、この時期には1981年 (昭和56年) と1986年 (昭和61年) に西大泉町の一部が南大泉に編入されている。人口データ未入手の20年間で世帯数は倍近くに増えている。人口は少子化の影響で増加率は以前ほどではないが、それでも少しずつ増加している。ここ10年は世帯数の増加は衰えていないのだが、人口は横ばい状況になっている。
練馬区史 歴史編に記載されている南大泉内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 妙福寺
- 神社: 愛染稲荷、最上稲荷
- 庚申塔: なし 馬頭観音: 1基
まちづくり情報誌「こもれび」- 南大泉
南大泉 訪問ログ
妙福寺
南大泉五丁目の東上手と呼ばれる地域に日蓮宗寺院の西中山妙福寺がある。江戸時代から戦前まではこの寺院の周りに東上手の集落があった。妙福寺は、もとはも慈覚大師 (円仁) を開基とする慈東山大覚寺と称し、天台宗の寺院だった。850年 (嘉祥3年) に草創された古い寺だ。鎌倉時代に中山法華経寺歴代の日高・日祐上人の巡錫に会い、1322年 (元亨2年) に日祐上人により、身延山の日蓮の下で修行した日高が、1282 (弘安5年) に小榑の里に草創した庵だった要法下種山妙福田寺と合併して法種山妙福寺として日蓮宗に改宗し、この付近一帯の日蓮宗布教の中心となり、妙福寺の住職は代々中山法華経寺貫主が兼任してきたため「西の中山」と称されていた。確かに大泉の地域には日蓮宗の寺院が多く、地域住民の信仰の中心になっている。練馬区のその他の地域には日蓮宗の寺院はあまり見かけない。天正年間 (1573-1591) 以降は歴代徳川将軍から21石余の御朱印 (3代将軍徳川家光から14代家茂に至る9通の朱印状も所蔵されている) を賜り厚く保護され、大乗院 (西大泉)、慈宏寺 (杉並区宮前)、本応院 (南大泉)、法性院 (大泉学園町)、善行院 (大泉学園町)、本立寺 (関町北)、蓮乗寺 (武蔵野市吉祥寺本町)、福泉寺 (西東京市下保谷) を塔頭に擁し栄えていた。将軍御朱印状の取り次ぎには領主の米津伊勢守がした事も文書で残っている。徳川家の祈願所としても1877年 (明治10年) まで回向祈願をつとめていた。
道路から参道に入ると、左手に仏舎利を納める十三石塔 (写真左中) と題目塔 (写真左下) がある。右手の方にも題目塔 (写真右中、右下) がある。総門を入ると敷石供養塔などもあった。
総門の先には仁王門があり、境内へと続く。この仁王門が山門にあたるのだろう。この場所にも題目塔が建って入る。
境内に入るとすぐ左手には独特の形をした手水舎がある。今まで訪れた神社や寺院の手水舎は、シンプルなものがほとんどだが、ここの手水舎は特別で、これ程立派なものは見たことがない。
右手には銅板葺き、入母屋造り屋根妻入り12脚の鐘楼が置かれている。
鐘楼の奥には鬼子母神堂があり、尊神堂には子育ての神とされる鬼子母神、また天台宗開祖の伝教大師最澄の作と伝えられる開運の神が安置されている。堂宇の前に建てられた鬼形鬼子母神の石塔には見事な彫刻が施されている。
参道の奥には日蓮聖人を祀った祖師堂が建てられている。日蓮宗では本堂と並び重要な堂になる。
祖師堂の前には凄まじいまでの迫力の日蓮聖人ブロンズ像が置かれている。弘法大師像は大体、穏やかな顔立ちなのだが、戦う日蓮は荒々しいイメージで造られている。この作品は北村西望 (1884年~1987年) で彼の故郷の九州の島原を旅した時に多くの作品を見た。最も有名なのが「長崎平和祈念像」だった。
祖師堂の右隣には、1866年建造の本堂がある。本堂回廊には1850年 (嘉永3年) に江戸の鋳物師である銅屋清次郎によって制作され、小榑村と下保谷村の人々が妙福寺に奉納した半鐘が懸かっている。戦時中の金属排出の際に村長が隠して徴収を免れたものだそうだ。回廊下には、昔の消防ポンプが置かれている。放水する様子が、龍が水を吐くように見えたことから龍吐水 (りゅうどすい) と呼ばれていた。
本堂にの右手に客殿玄関 (写真左) が続いている。更に右に庫裏 (くり 右) が連なっている。
庫裏の中は見れないのだが、庫裏の玄関の小屋組は1701年 (元禄14年) に上棟された唐傘 (からかさ) 造になっている。元々は茅葺だったのだが今は銅板張りの屋根になっている。庫裏を入ると土間で、将軍が馬に乗ったまま入ってこられるように広い間口になっている。これはこの地域はこの地域は江戸時代には御鷹場で、妙福寺は将軍が鷹狩りをする際の休憩所になっていたそうだ。柱は馬の手綱をかけるためのもの。内部の写真があったので、それを載せておく。吊るされた駕籠は豊臣秀吉の姉の出家先の門跡寺院瑞龍寺から送られたもので、明治期まで代々の住職が実際に使用していた。
この寺には神仏習合時代の日蓮宗の法華経守護神とされた三十番神を祀る三十番神社もある。
妙福寺は寺院以外に様々な事業を運営している。参道に隣接して妙福寺保育園があり幼児教育に貢献、その隣にはタウンテニス大泉学園、東京藝術大学陶芸科の協力を得て東京陶芸倶楽部小榑会を昭和56年創設し陶芸教室を開講している。寺がこのような施設を運営している事に批判もあるのだが、教育、健康、文化に貢献できるのであれば、その経営が健全な限り、積極的にやる事は良い事と思える。
日蓮宗法華結社
妙福寺の西には日蓮宗法華結社がある。法華堂と表札が出ている。詳細は分からなかったにだが、この地域の根強い信仰の日蓮宗関連の施設のようだ。入り口にはしめ縄がかかっているのだが、日蓮宗では今でもしめ縄を使っているのだろうか?
愛染稲荷
南に進み保谷駅を越えた所は南大泉三丁目になる。ここには愛染稲荷の祠が置かれている。南大泉商愛会の稲荷神社だそうだ。7月には商店街の祭りが催されている。江戸時代からある神社なのか、商店街が新しく作ったのか?この辺りは西中前新田という地域で、江戸時代に開拓されたところのようだ。比較的多くの住民がいた集落のようだ。その集落の鎮守だったのだろうか?
最上稲荷 (さいじょういなり)
都道25号線の途中から西に道を進み南大泉二丁目に入る。この地域には最上稲荷が置かれている。朱塗の鳥居の脇には「南無妙法蓮華経」と刻まれた明治25年造立の題目塔が置かれいる。この神社の詳細は見つからなかったのだが、岡山県に最上神社という日蓮宗の最上稲荷山妙教寺がある。日蓮宗が根強い大泉と日蓮宗の供養塔の題目塔がある事から、この神社も日蓮宗の最上稲荷山妙教寺と関係があるのではと思う。
馬頭観音
南大泉の南の境界線はかつてのふじ大山道 (富士街道) で現在の都道8号線 (千代田田練馬田無線) になる。この街道沿い、南大泉町1丁目-17-29に馬頭観音があると資料には載っていた。1855年 (安政2年) に造立された駒形文字の馬頭観音なのだが、写真も情報もなく見つかるか不安だった。記載されていた住所は個人の墓地だった。施錠されていて中に入る事は出来なかったので、外から見ると数基の石塔が建てられている。この中に馬頭観音もあるのではと思う。
滞在している長女の家に戻り、夕食後には誕生日のケーキを用意してくれていた。今日が誕生日なのはわかっていたが、意識していなかったのでケーキを出されるまで忘れていた。思いがけない事だった。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)