二つのWWF王座を掘り起こしたレスラー・藤波辰己
1978年1月23日、WWWF(WWE)の殿堂だったニューヨークMSGのリングでWWWFジュニアヘビー級王座を奪取した一人の日本人レスラーがいた。その名は藤波辰己。
昭和50年6月、新日本プロレスで開催された若手の登竜門「第1回カール・ゴッチ杯」に優勝した藤波は木戸修と共に西ドイツへ海外武者修行に旅立ち、半年間ファイトした後でアメリカへ転戦、フロリダに住むカール・ゴッチの下で指導を受けた。しばらくすると新日本プロレスからの指示で木戸が一足先に帰国、一人残った藤波はゴッチの指導を受けつつ、NWAのミッドアトランティック地区、メキシコUWAで試合をこなし、レスラーとして成長した。
77年12月、当時の営業部長で猪木の片腕だった新間寿氏から帰国命令が下されるが、海外で食べていける自信をつけた藤波は帰国命令を拒否、それでも諦めない新間氏は藤波と話し合い、藤波は「帰国するなら、何か考えてください」という条件をつけた。そこで新間氏は当時のWWWF(WWE)のボスだったビンス・マクマホン・シニアにWWFジュニアヘビー級王座を復活させて欲しいと依頼する。
WWWFジュニアヘビー級王座は藤波用に作られた王座ではなく実在した王座で、1965年に誕生しジョニー・ディファジオが王者となったが、1972年に封印されていた。そのベルトに目をつけた新間氏はトニー・ガレアを降し王者となったカルロス・ホセ・エストラーダに藤波を挑戦させ、1978年1月23日、WWWFの本拠地でプロレス界の殿堂とされたニューヨークMSGのリングで藤波はこの試合で初披露となったドラゴンスープレックスホールドで3カウントを奪い王座を奪取、この試合は「ワールドプロレスリング」でも放送され、藤波は瞬く間にスターダムへとのし上がった。WWFジュニア王座は実況担当だった古館伊一郎氏によって「ディファジオ・メモリアル」と呼ばれたが、新間氏と藤波が掘り当てた王座だった 藤波は王座奪取後もアメリカで防衛戦を行い、凱旋帰国後も新間氏は「藤波は国際的な王者でもある」とイメージづかせるために、シリーズの合間にも藤波をアメリカ、メキシコへ送り防衛戦を行わせ、日本で一旦剛竜馬に王座を明け渡すも、2日後に奪還した藤波はヘビー級へ転向するまで海外を股にかけて防衛戦を行った。
藤波のMSGでの戴冠はジュニアだけではなかった、1981年にヘビー級へ転向した藤波は1982年8月、同じMSGのリングでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナルヘビー級王座を奪取、インターナショナル王座も実在する王座で、1959年に誕生しアントニオ・ロッカがバディ・ロジャースを破り初代王者となり、これも古館氏によって「藤波が掘り当てた『ロッカ・メモリアル』」と称された。 なぜ新間氏がインター王座を掘り起こそうとしたのか不明だが、当時全日本プロレスに力道山伝統のNWAインターナショナルヘビー級王座があり、ジャンボ鶴田に巻かせようとしていたことから、新日本も全日本に対抗するためにWWFインターを掘り起こして、鶴田より先に巻かせたかったのかもしれない。
WWFインター王座は藤波vs長州の名勝負数え歌に使われ、藤波も長州以外にマスクド・スーパースター、エル・カネック、ボブ・オートン・ジュニア、アドリアン・アドニス相手に防衛戦を行ったが、そのベルトの権威が問われる事態が起きた。1984年3月25日MSGにて突如「WWFインターナショナル・ヘビー級王座決定戦」を行なわれ、新日本から姿を消していた前田日明がピエール・ラファエルをコブラツイストで降し新王者になり、新団体「UWF」への参戦を表明した。この王座決定戦を仕掛けたのは新間氏で、前年度に起きたクーデター事件で全責任を問われて新日本を去っていたが、水面下で新団体設立へと動いており WWF会長の地位に就いていたことからマクマホン一家との関係も続いていた。ベルトには「UWF」の名前が施されていたことから、WWFのベルトではなくUWF用に作られたベルトであったことは明白だった。
WWF会長の座を利用して、もう一つのWWFインターベルトを作った新間氏に坂口征二副社長は「冗談じゃない。この王座は新日本プロレスに管理運営権があるんだ」と主張、前田の兄弟子格だった藤原喜明が前田への刺客として挑戦を表明、社長だった猪木も了承を得て藤原がUWFに参戦し前田と対戦したがWWFインター王座はかけられなかった。この頃のWWFは病床のビンス・シニアからビンス・マクマホンに代替わりしており、ビンスも代替わりを契機に新日本との関係を見直してWWF有利のブッキング契約を結ぶように新日本に迫っていた。これは自分の見方でもあるが、新日本が断ればUWFと提携すると迫り、新間氏やWWFインター王座の存在も交渉材料として利用していたのではないだろうか? 新日本プロレスはWWF有利と新しいブッキング契約を締結、UWFにはWWFインター王座を持ち込めないどころか、WWFからも選手が派遣されることはなく、その後前田と対立した新間氏はUWFを去ったことでUWF版WWFインター王座は消滅となったが、WWFとしても新日本と新しい契約を締結した時点で、UWFやUWF版WWFインター王座も利用価値がなくなって用済みとされてしまったのかもしれない。
新日本とビンス体制となったWWFとの関係も長くは続かず、翌年の1985年7月にスーパー・ストロング・マシンとの防衛戦で両者反則に終わった藤波は裁定に不服として王座を返上も、10月をもってWWFとの提携が解消されたことで、藤波は2度と王座を巻くことはなく、インター王座とジュニア王座は封印となった。2015年に藤波がWWE殿堂入りを果たしたが、WWFジュニアやインター王座を功績ではなく、NWA世界ヘビー級王座を奪取した功績を称えられての殿堂入りだった。しかし藤波がWWFジュニア王座を持ち帰ったことで日本マットにジュニアヘビー級という概念が生まれ、インター王座を持ち帰ったことで長州が王座になることが出来た。この日本マットにおける功績はこれからもずっと変わらない。