nWo JAPAN、平成維震軍さえも飲み込んだTEAM-2000はこうして誕生した!
2月16日、後楽園ホール大会で開催されたマスターズ・オブ・レスリングで蝶野正洋率いるTEAM2000(以下T-2000)が一夜限りの復活を果たし、当初は小島聡が参戦予定だったが左膝前十字靭帯断裂の重傷を負ったため欠場となるも、代わりにnWoスティングとして新日本に参戦していたスーパーJが参戦、コンディション不良で試合には加わらなかった蝶野も試合途中で乱入しケンカキックやシャイニングケンカキックを披露して健在ぶりを見せつけた。
1996年7月にWWEからWCWから引き抜かれたケビン・ナッシュとスコット・ホールのジ・アウトサイダーズにハルク・ホーガンが結託してことでnWoが誕生、アメリカンプロレスの絶対的ベビーフェースだったホーガンのヒールターンは大きなインパクトを与え、nWoはたちまちWCW内でも席巻し、一大ムーブメントと化した。12月に蝶野がWCW遠征をした際にnWoに加盟、蝶野が率いていた狼群団はnWo JAPANとユニット名を改め、WCWからは既にnWo入りを果たしていたスコット・ノートン、バフ・バグウェルが送り込まれ、更にグレート・ムタ(後に武藤敬司としてnWoに再合流)も合流したことで、日本でも一大ムーブメントと化した。
1998年8月8日の大阪ドーム大会で蝶野は藤波辰爾を破ってIWGPヘビー級王座を奪取、蝶野の念願だったIWGPヘビー級王座を獲得することで、nWoが新日本を制圧したかに見えたが、この藤波戦で蝶野が首を負傷してしまい、初防衛戦も出来ないまま王座を返上、蝶野の初防衛戦の相手だったノートンと凱旋帰国したばかりの永田裕志の間で王座決定戦が行われ、ノートンが王座を奪取するも、nWoは武藤がリーダーとなり、武藤の独断で小島をnWo入りさせたことで、欠場中の蝶野と亀裂が生じるようになる。
1999年1月4日の東京ドーム大会では武藤がノートンを破りIWGPヘビー級王座を奪取、天山と小島も天コジタッグを結成して天龍源一郎&越中詩郎組を破りIWGPタッグ王座を奪取、武藤の独断には天山もヒロも不信感を抱いていたが、武藤を中心として改めて団結する。欠場中の蝶野も放送席でゲスト解説に招かれていたが試合内容は称えつつも、事実上nWo JAPANを乗っ取った武藤に不快感を示した。
孤立した蝶野はnWo JAPANから離脱して独自行動を取り、札幌中島体育センター2連戦の初日である2月5日から復帰も、カードは武藤&ヒロvs蝶野のハンディキャップマッチで、開始早々から蝶野はヒロ相手にケンカキックを連発するが、さすがの蝶野も1人で2人を相手にするのは無理があったのか、武藤組の連係に捕まってしまう。そして武藤はドラゴンスクリューからの足四の字固めで蝶野を仕留めにかかると、突如AKIRAが乱入して武藤にムササビプレスを投下してカットに入る。当時のAKIRAは平成維震軍に属していたが網膜剥離で欠場し、俳優業を開始して「仮面ライダー・クウガ」にも出演、レスラーとしてはほとんどセミリタイアの状況だったが、蝶野の誘いを受けてレスラー復帰に復帰することを決意していた。
AKIRAの乱入で武藤のセコンドに着いていたnWoスティング、マイケル・ウォールストリートらも困惑する中で、蝶野は場外戦で武藤を流血に追い込み、AKIRAと二人掛りで武藤を痛めつけ、蝶野のケンカキックからAKIRAが再度ムササビプレスを投下、大ダメージを負った武藤はnWoスティングとマイケルに連れられてバックステージへと下がってしまい、リング内では孤立したヒロが孤軍奮闘も、蝶野のSTFに捕まったところで武藤が戻りnWo JAPANは猛反撃する。蝶野は武藤に急所打ちを浴びせてからフライングショルダーアタックを命中させカバーに入るも、この時点でレフェリーがやっと試合終了のゴングを鳴らして無効試合となり、試合後も武藤を徹底的に痛めつけてバックステージへと引き揚げていく。 6日の札幌2連戦2日目では蝶野vs武藤&小島のハンディキャップマッチの予定が、蝶野にAKIRAが加わったことでタッグマッチに変更、先に入場していた武藤は後入場の蝶野を襲撃して試合開始も、蝶野が返り討ちにして再び流血に追い込む。終盤にはAKIRAとの連係で武藤を追い詰めた蝶野はケンカキックからバタフライロックで捕獲し武藤はギブアップ、蝶野は復活を果たす。蝶野はこの後で新ユニットTEAM2000を結成、後にドン・フライやnWoスティングも合流してリングネームをスーパーJと改め、武藤率いるnWo JAPANと抗争を繰り広げていったが、前年度ではWCWでもnWoがウルフバック派、ハリウッド派と分裂していたことから、日本でも同じ光景が繰り広げられていたのだ。
TEAM2000結成の裏では平成維震軍が解散を表明した。維震軍は参謀役だったザ・グレート・カブキが契約切れで新日本を離脱したのを契機に存在意義が薄くなり始め、nWo人気の前に軍団抗争から置き去りにされていた。越中と木村は藤波や天龍源一郎と共闘することで存在意義をアピールするが、AKIRAが蝶野と結託、齋藤彰俊も新日本とは契約を更新せず、小林邦昭も病気欠場していたことで、戦力が薄くなっていた。越中と木村は本隊へと戻り、後藤と小原は独自行動を取りつつ、後にTEAM2000に合流することになる。
2000年1月4日の東京ドーム大会では武藤vs蝶野の頂上決戦が行われ、蝶野が勝ったことでnWo JAPANは消滅し、天山や小島、ヒロ、ノートンの残党はT-2000に合流、武藤はグレート・ムタとしてWCWに参戦するために一人渡米したが、もうこの頃にはWCWでもnWoそのものが消滅していた。 (参考資料 新日本プロレスワールド)