中秋の名月に
今年ほど夜空を見上げている年は、なかったと思う。
先日、親しい友人Fさんが主催した、中国華流文化講座に出席する機会を得た。ご主人が仕事で中国に滞在しておられたことをきっかけに、ご自身も長く、中国語や中国の文化に学ばれた方なので、それらに対する造形はとても深い。
講座を開いた理由は、これまで学んできたことを人にお伝えしたいという使命感を持ったからだそうだ。
使命感。いい言葉だ。
私は常々自分自身の生き方に「ビジョン(夢)、パッション(情熱)、ミッション(使命)」の3つの要素を握っていたいと考えているのだけれど、ミッション。すなわち使命というものは、ビジョンとパッションに突き動かされ、扉が開くものだと思っている。
夢を持つ。その夢を実現するために情熱の炎を燃やす。炎の中で精錬された使命は、やがてじんわりとその姿を現してくるのだ。素晴らしいことではなかろうか。
くだんの講座は大変興味深かった。初回のテーマは「中秋の名月」ということで、中国のお月見を様々な方向から学んだ。伝説やおとぎばなしの紹介に始まり、その歴史や方法。また、満月がなぜ中国で愛でられるのかという理由(そのひとつに中国は丸いものにめでたさを感じる文化であるということも聞いた)。さらに、お月見で食べる月餅という中国菓子のレシピも知ったし(すごく難しくて作れそうにはないけれど)、Fさん自らが実演してくださった中国茶を飲み、月餅やマーラカオといったスイーツをいただいたりもした。
また、日本のお月見について、話す機会もあった。参加者に問われた質問「お月見は何をしていますか?」に、皆はしばし過去に思いを馳せ、順に語る。
いわく、
小さい頃はお月見の日は母が団子を作ってくれた、でも味がないだだの真っ白の団子の美味しさがわからず、あまり好きではなかった。そうしたら翌年から、母は団子にあんこやきなこをつけてくれるようになったのが嬉しかった。
だとか、
東京の生まれなのだが、当県に引っ越してくるまで月を意識したことなどなかった。月はたまにビルの谷間に見える程度のものだった。ある日夜空を見上げて驚いた。ここでは何と月が大きく見えるだろうかということに。
だとか、
家族でお月見らしいイベントはあまりしたことはないけれど、幼い頃、月の中でうさぎさんがお餅をついているという絵本を読んだ記憶が強い。月にはうさぎが住んでいるのだと思っていた。
など。それぞれの思い出話が面白い。
私はこの十数年、夜空を見上げることはほぼ忘れている。確か数年前の記事でも似たようなことを書いていた。つまり、自分にすれば、月や星を見ることは、あえて意識しないとできないことなのであろう。
けれど、と思う。
夜空で輝く月は、目を上げさえすれば誰にでも等しく与えられている美しい存在なのだ。その美しさを楽しまないなんて、もったいないのも確かである。
周りに積み上げられた雑事をこなすことで過ぎていく慌ただしい日常。充実しているとも言い換えられるけれど、たまには水平ではなく垂直に視線を移してみるのだ。
見上げてごらん、夜空を。
見上げる時、私たちは動きを止めざるを得ない。全てを一旦脇に置いて、上だけを見つめるのだ。太古の昔から輝く満月は、いつの時代であっても人の心を静かに打つ。
文豪、夏目漱石が、英語の「I Love you.」の言葉を、日本語で「月が綺麗ですね」と翻訳したというのは有名な逸話である。なんと奥ゆかしい翻訳ではないだろうか。
見つめ合い「我君を愛す」と語り合うことも悪くはない。けれど、思いやる者同士が同じ方向を見て、同じ対象物に「綺麗ですね」と語り合う姿には、変わらずたゆまない、静かな愛情を感じずにはいられない。
そんなわけで、今年の中秋の名月は、久しぶりに時間をかけて満月を楽しんでみた。お供に食べたスイーツはお団子でも月餅でもなくて、クッキーアイスだったけれど。
『月が綺麗ですね。』
『ずっと前から綺麗でしたよ。』
時を超え、その姿を変えず夜空に浮かび続ける月をこんなに身近に感じた秋は、今年が初めてだったと思う。
とても素敵だ。