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練馬区 23 (18/10/23) 関村 (1) 関町南

2023.10.19 02:35

関村 関町南


練馬区の史跡巡りもようやく最後の村の関村に入る。かつての関村は現在では関村南、関村東、関村北の三つの行政区に分かれている。まずは関村南から見ていく。



関村

関村の由来は豊島氏が石神井に在城のころ、関所を設けたからと伝わっている。別の説では、川の堰に由来するともある。1784年 (天明4年) の村絵図は溜池 (今の富士見池) の川下に大堤が描かれている。堰は古来には井関、井口と言われており、関村の開発者で、本立寺の開基である井口氏とこの関を表す地名の井口との結びつきも考えられる。

新編武蔵風土記稿によれば、関村には大関、小関、本村、三ツ家新田、関原 (せきっぱら)、葛原、小額 (こびたい)、札野、二ツ塚、鉄砲塚の小名があったと記されている。

  • 大関、小関は石神井川の北側で現在の関町北4丁目。大関は川上、小関は川下で、隣の上石神井村の小字の小関と接していた。
  • 本村は現在の関町東一帯にあたる。村で一番早く開けたところだった。
  • 三ツ家新田は本村近くで、文字通り3軒が新家 (しんや) に出て開墾した土地だった。
  • 関原は現在の立野町。関村の内でも新しく開かれたところで、上石神井村の飛び地、立野と交錯していた。
  • 葛原、小額は青梅街道の北に面した現在の関町北1~3丁目にあたる。葛原は植物のクズ (葛) が繁茂していたと思われる。小額は地形的に山の頂に近い正面をいうので本村から見て台地を登った所だった。
  • 札野は江戸時代に幕府御用のカヤなどを刈るために高札を立て、立ち入りを禁止した場所だった。1669年 (寛文9年)、関村の名主八郎右衛門が自ら開発請負人となり、それまで札野であった所を開拓した。関前新田 (現在の武蔵野市) も、その一つだった。
  • 二ツ塚は青梅街道の南側で、現在の関町南4丁目に不動塚と物見塚という二つの塚があった。不動塚には不動尊が祀られ、物見塚は関の番所か見張所だったと思われる。
  • 鉄砲塚のテッポウは真っすぐという意味で付けられた。石神井西中学校の所にあって、南北に細長かったという。明治時代には二ツ塚を合わせて「三ツ塚」といった。
  • 竹下新田は、もとの関村のうちの幕府の御用林だった。1784年 (天明4年) に竹下忠左衛門という浪士が願い出て開墾したのでその名が付いた。竹下新田は下竹 (現 関町南1・2丁目) と、上竹 (現 関町北3丁目) に分かれていた。新編武蔵風土記稿には竹下新田には久保、千川付 (せんかわつけ)、前野、淵崎の小名が記されている。下竹の久保は隣村上石神井の久保に接し、上竹の淵崎は富士見池の縁で高台の先端付近をいう。


関村 関町南

関町南は東京都23区の西端で、練馬区の南西部にも位置しており多摩の境界に位置する。東は杉並区上井草に、南は立野町、杉並区善福寺、武蔵野市吉祥寺北町と緑町、西は西東京市東伏見に、北は関町北、関町東、上石神井、上石神井南町に接している。青梅街道沿いに郊外型小売店の立地が見られる他は、多くが住宅街となっている。千川上水沿いには畑作地も見られ、武蔵野の面影が残っている。

江戸時代は関村と呼ばれて、戦国時代に置かれていた関所か石神井川の堰が村名の由来と考えられている。青梅街道は運搬の道として開かれ、武州御嶽への参詣道としても賑わっていた。関村はその街道沿いの宿場まちとして栄えていた。現在の関町南となっている地域は江戸時代には武蔵国豊島郡関村の小名二ツ塚、鉄砲塚、および竹下新田の小名久保、千川付あたりに相当する。1784年 (天明4年) に、竹下忠左衛門が中心となって、関村の中の林を耕して新田を開拓した。新田は開拓者の名をとって「竹下新田」と呼ばれた。新田は上竹 (かみたけ 現 関町北3丁目) と下竹 (しもたけ 現 関町南1・2丁目) の2か所あった。1879年 (明治12年、竹下新田は関村に合併され、1889年 (明治22年) の町村制施行により関村と竹下新田は東京府北豊島郡石神井村大字関甲と関乙となり、関町南は字三ツ塚 (現在の三丁目・四丁目)、下竹 (現在の一丁目・二丁目) にほぼ相当する。

1932年 (昭和7年)、板橋区成立に際して東京府東京市板橋区石神井関町となり、旧関村は2丁目、下竹は1丁目、上竹は3丁目となった。1978~84年 (昭和53~59年) の住居表示で旧関町のうち千川通りと青梅街道の南側の1丁目が関町南となっている。

関町南にはそれ程多くの史跡は残っていない。元々は下竹の江戸時代の1784年 (天明4年) に開拓された新田だったので、それ以前は畑一帯だったので、集落もなく寺社仏閣なども存在していなかったのが背景にある。史跡は千川上水沿いと青梅街道沿いに幾つかある。

明治時代の地図を見ると民家は青梅街道沿いに多く見られ、民家の分布は戦前までほとんど変化していない。戦後、全域に住宅が建設され、現在ではほぼ全域が住宅地となっている。

関町南地域の人口が増加し始めたのは戦後で、特に高度成長期に大きく増えている。1977年に人口は激増しているが、これは旧関町3丁目と4丁目の一部が編入されたことによる。2000年以降は人口は横ばい状態だったが、2017年以降人口が再度増え始めその傾向は続いている。


練馬区史 歴史編には記載されている関町南内の寺社仏閣や民間信仰の塔は掲載されていないのだが、巡って見ると神社や千川上水沿いに庚申塔があった。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 竹下稲荷神社、御嶽神社
  • 庚申塔: 0+2基 馬頭観音: なし


まちづくり情報誌「こもれび」- 関町南・立野町


関町南 訪問ログ



関町南は東西に長く伸びた地区でその中を千川上水が流れている。千川上水沿いをポタリングしながら、関町南の史跡を巡って行く。



千川上水緑道

関町南の東の端には千川通り沿いに遊歩道がある公園が造られている。丁度青梅街道との合流点手前で、千川上水はこの合流点まで暗渠になっている。その暗渠の上に緑道が造られている。


伊勢橋跡

千川通りと青梅街道の合流点には千川上水に伊勢 (殿) 橋があった。現在は橋は無く交差点名として残っている。 (は左下) 千川上水へはここから下流は暗渠となっているが、上流側は玉川上水の合流点までは開渠のままで、所々昔の武蔵野に流れていた上水の名残が見られる。伊勢橋は上水開設を監督した道奉行の伊勢平八郎の名から付けられたそうだ。石神井村の村人から出店 (でだな) 橋とも呼ばれていた。江戸時代は青梅街道が御嶽詣道で街道沿いには茶店などがあった事からこう呼ばれたそうだ。

撤去される前の伊勢橋の写真が残っている。


御嶽神社

伊勢橋跡の近く、千川上水沿いに御嶽神社がある。創建年代等は不詳ながら、明治年間から昭和初期までの石神井村 (現在の上石神井、下石神井、石神井台、石神井町、関町北、関町南) の1万人足らずの住民のうち下石神井御嶽神社の東京一山講社講員が1800名程に達していたとされ、御嶽信仰は盛んだった。大正2年にはここの千川上水対岸にあった竹下新田鎮守だった厳島神社が、天祖若宮八幡宮に合祀された際に、この地にに御嶽信仰の祠が必要と考えて造られたと思われる。

境内には石塔が幾つが集められている。1695年 (元禄八年) の舟型延命地蔵 (写真左中)、1688年 (元禄元年) の笠付角柱型の庚申塔 (上中) で青面金像が浮き彫りされている。1728年 (享保13年) の笠付角柱の大乗妙典六十六部供養塔 (左上)、年代不詳の山状角柱の廻國供養塔 (右上) など


竹下稲荷神社

この付近は江戸時代中頃に開発された、竹下新田で、同じ時期にこの竹下稲荷神社も創建されたと考えられる。この辺りには文政年間には19軒程が住んでいた。ここに住み始めた村人の守り神とされたのだろう。明治時代にに竹下の厳島神社に合祀され、1913年 (大正2年) には天祖神社へ合祀となっていたが、平成3年に、合祀を離れて元あった地に戻り、新たに竹下稲荷神社と称している。1888年 (明治21年) に造られた鳥居もここに戻る際に天祖若宮八幡宮から移されている。社殿は1857年 (安政4年) に建てられ、元は竹下の厳島神社のものが、1930年 (昭和5年) に当地に移転した。

境内には1859年 (安政6年) の水盤、信次池無弁天尊の境内末社が置かれている。


竹下橋

竹下稲荷神社から千川上水に戻り、上水沿いを上流に向かって走る。この上水に架かる橋を辿ると、すぐに竹下橋になる。ここまでは千川上水両側は民家が立ち並んでいる。この地域の竹下新田の名が付けられている。


久山 (きゅうやま) 橋

竹下橋を過ぎると北側にはは畑が広がっている。千川上水沿いには木々が植えられている。久山橋に着く。


田中橋

久山橋を過ぎると畑は無くなり、住宅街の中に千川上水が流れている。次はすぐの所に田中橋が架かっている。


アイメイト発祥地

田中橋から南に寄り道をする。史跡では無いのだが、関町南には盲導犬の訓練施設がある。1948年 (昭和23年) にここの住民だった塩屋賢一氏が社会貢献を目指して関町南の自宅で駐留していた米国進駐軍の盲導犬の訓練を始めた。塩屋氏は小さい頃から犬好きで、近所には日本軍の軍用犬訓練場があり、それを見て育った。戦後、愛犬学校を開業し、金持ちの愛犬訓練や警察犬育成を行なっていたが、最も世の為になる事をしたいという気持ちが強くなり、盲導犬の育成が始まったそうだ。その後、1957年 (昭和32年) に盲導犬第一号のチャンピイをデビューさせた。1967年に日本盲導犬協会を設立するが、当時は上から目線の協会と本来は視覚障害者と一体となり自立の援助を目指す塩屋氏の意見の対立で決別し、1971年に新たに東京盲導犬協会 (現在のアイメイト協会) を設立している。

1996年には関町北に視覚障害者歩行訓練センターが開設されるまでになった。自宅で始めてから既に80年が過ぎた現在でも運営は続いている。今では盲導犬はアイメイトと呼ばれ、視覚障害者がその助けを受け共に生活をする相棒となっている。この施設は日本でのアイメイトの発祥とされている。

ここでは盲導犬育成だけでなく、アイメイトとその主人となる視覚障害者の歩行指導も行っている。もう一つ忘れてはならないのは、この協会の活動は盲導犬と視覚障害者を理解し受け入れる社会への変革活動で社会のメンタリティや社会生活環境の改善をもたらしている。これにより、視覚障害者はホテル、カフェ、鉄道も利用でき、視覚障害者のための歩道整備、音声案内、点字案内などの環境に変わってきている。まだまだ社会には改善すべき物が多く残っているが、アイメイト協会は日々頑張っている印象を持った。このような説明をしているアイメイト協会のホームページは一見の価値がある。


吉祥寺橋

千川上水に戻り上水沿いを進む。途中自動車道路は上水から離れるのだが、上水沿い畑の中に歩道があるのでそこを進むと吉祥寺橋にでる。ここに昔からの屋敷林があるのだが、この千川上水で立野町になるので、屋敷林は立野町のレポートに含める。


東北浦橋


千川上水施餓鬼亡霊供養塔

吉祥寺橋の袂に千川上水施餓鬼亡霊供養塔が建てられている。上水工事のために死んだ工夫や溺死者等、成仏できない餓鬼亡霊たちの施餓鬼の供養の為に近在の人々が寄進して、1908年 (明治4年) に立てられた石碑になる。

台石正面には「右八田無小金井道」 「北八関青梅街 道々」「左ハ吉祥寺停車場 井之頭道」と刻まれ道標の役割を果たしていた。


桂橋

桂橋を通過。


北裏橋

次は北浦橋を通過。


西北浦橋、三ツ塚けやき緑地

北裏橋を過ぎると上水の北側は集合団地が始まる。1974年に竣工した武蔵野グリーンタウンで401戸の大規模マンションだ。西北浦橋を北に渡った所にマンション街の一画に小さな緑地がある。三ツ塚けやき緑地という。史跡でもなんでも無いのだが、この地域は三ツ塚と呼ばれた地域で、昔は二ツ塚と鉄砲塚があり、まとめて三ツ塚と呼ばれていた。


更新橋、庚申塔

武蔵野グリーンタウンの西の端は更新橋交差点になる。ここには更新橋が架かっている。この場所には庚申堂があるのだが、何故か「庚申」橋でなく、「更新」橋となっている。

千川上水沿いの更新橋の袂に堂宇が置かれている。堂宇の中には1775年に建てられた舟形庚申塔が鎮座している。元々は三郡橋 (みごおりばし) 近くの武蔵野市側にあったそうだ。練馬区の資料にこの庚申塔は紹介されていない。武蔵野市の石造物と考えているのだろう。石塔上部には種子の梵字のウーンと日月が刻まれ、その下にシュケラを踏みつけた四臂三眼青面金剛が浮き彫りされ、左手上手に三股、下手に棒、右手上手に一輪、下手に羅索が握られている。下部には三猿も彫られている。その両脇にも庚申塔と思われる小さな石仏が置かれている。


関村分水口

更新橋から千川上水北岸を少し進むと西東京市との境界線の路地がある。この道は江戸時代には用水路で、千川上水から溜井 (武蔵関公園富士見池) へ水田灌漑用に引かれた関村分水跡になる。当時の関村分水はこの西側の三郡橋付近から取水され武蔵関公園富士見池付近の石神井川まで流れていた。


西窪橋

千川上水を更に西に進むと西窪橋があり、ここが関町南の西の端になる。この北側には戦前、中島飛行機武蔵製作所の社員寮が置かれていた。南側には広大な敷地の製作所があり、戦闘機が製造されていた。これで関町南を東から西に横断した事になる。


千川上水はこの先の鏡橋で玉川上水から分水路まで続いている。この先は次回にたどる予定。



参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)