エターナル・サンシャイン
エターナル・サンシャイン
Eternal Sunshine of the Spotless Mind
2005年3月4日 九段会館にて(試写会)
(2004年:アメリカ:107分:監督 ミシェル・ゴンドリー)
すると男がこう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。 (夏目漱石 『三四郎』より)
この言葉の通りの映画。何よりも広いのは頭の中であるという・・・頭の中にある記憶、それを拾い集めて嫌な部分だけ消去しましょう・・・という発想。
脚本、原案、製作総指揮がチャーリー・カウフマン。原案、監督がミシェル・ゴンドリー。
この2人の組み合わせというだけで、私はこの映画にずっと関心を持っていました。
チャーリー・カウフマンは『マルコヴィッチの穴』で、俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中に入って本人になれるツアーという映画、ミシェル・ゴンドリーは『ヒューマン・ネイチュア』で類人猿を紳士に育て上げる奇妙な実験を映画に「してしまった」人たち。
この映画はその2つの要素が合体して、より緻密になっているという出来だと思います。今年のアカデミー賞ではオリジナル脚本賞を受賞しました。
原題の「しみひとつない心の永遠の日の光」というのがまたポイントですね。
記憶というのはやっかいで選ぶことができません。良いことも悪いことも、性格により姿形を変えて頭の中に残ったり、消えてしまったり、自分の自由にはならない。年を重ねるごとに「しみだらけの心」を持つようになる。
そこを、ある会社が「嫌な思い出だけ消します」という商売をしている・・・という発想から、実際、失恋の記憶だけ一晩かけて消して朝起きたらどうなるか、どんなことが起きるのか・・・というのをちょっとブラックでとてもファンタジックなラブ・コメディに仕立て上げています。
失恋男はジム・キャリー。今までのオーバー・アクトは出さず、小心者で協調性がなくて、パーティでもひとり離れたところにぽつん、人の目を見て話せない、といったナイーブで傷つきやすい独身男を演じていますね。こういうナイーブさというのは実は、ジム・キャリーの素顔の部分に多くあってキャスティング上手いです。また、オーバー・アクトではないけれど、記憶の中では子供時代までさかのぼりますから、体は大人でも精神は子供なんてところは、ジム・キャリーならではの細かい動きに感心。
相手となる奔放娘はケイト・ウィンスレット。『ネバーランド』で貴族の未亡人やってたかと思うと、髪の色が緑だったり、赤だったり、青だったりくるくる変わる、ちょっと変わった気まぐれ奔放ぶりを発揮していますね。
実験が始まると、ジム・キャリーの頭の中と、実験をする会社の人間たちの人間模様が交錯します。
頭の中だけでも場面はあちこちに飛び、時には人の顔が思い出せないと顔がなかったり、同じ場面が繰り返して出てきたり、変なところにつながっているかと思うと、また逆戻り、白の部分は同じ形で黒になり形を変えて、消えていき・・・というのが特撮駆使しました、というよりも、カメラワークや美術、セットの作り、脚本の流れなどで上手く迷宮世界、エッシャーのだまし絵のような世界を見事に作り出しています。
そこへ、脇で実験を行っている人々・・・イライジャ・ウッドやキルティン・ダンストがからんでくるから、ちょっと目を離すとわからなくなりますが、そこはきちんと綺麗に説明していますから、決して難解ではないのですが、変な世界であることは確か。
そしてこれは冬の物語でもありますね。ケイト・ウィンスレットは出会ったジム・キャリーを夜の凍った池に行こうと誘う。
氷の上で寝ころぶ2人の絵は、冷たさと暖かさが両方出ていてとても綺麗。また、冬の海辺、雪がなぐりつけるように降る海辺を歩く2人。
そして記憶を消される課程で家の中と混同して、雪の降りしきる海辺にベッドがぽつんと・・・という心象風景をぱっと見せてくれる。
本当にこれは映画でなければできない事の数々を、とても巧妙に可笑しく綺麗に哀しく撮っています。
こういう映画ってとても好きですね。絵で語るということがちゃんと解っている。
それでいて、好きになるということは終りのないメビウスの輪のようなものだ、というシンプルな本筋なんですね。
ケイト・ウィンスレットの髪の色の変化が、とても可笑しいけれど男の記憶にある「女性との楽しい時、辛いとき」それぞれを細かく表しているようでもう一回観て、堪能したい気分です。