ZERO-ONE旗揚げ(後編)…破壊王が生み出したカオスの空間
猪木が主導権を握った橋本vs小川の抗争はドーム大会の目玉となり、2000年4月7日の「負けたら引退」を公約して試合に臨んだ小川との決着戦は橋本が敗れ、橋本は公約通りに新日本プロレスに辞表を提出、去就が注目されたが8月23日、橋本は熱心なファンの折り鶴兄弟から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明、10月9日東京ドーム大会では藤波自ら橋本の復帰戦を務めた。
橋本に関しては1・4事変から社長である藤波が主導権を握っており、1・4事変から自宅に引きこもってしまっていた橋本を口説き落として復帰させたのも藤波だった。藤波が橋本を預かったのは、長州が仕切る現場だけは社長である藤波も口出しできない領域だったこともあったことから、藤波が橋本を再生させることで現場に影響力を示すことが出来ると考えたからかもしれない。藤波は橋本に猪木が総帥を務めるUFO入りを薦めたが、師匠である猪木ですら信用できないぐらい人間不信に陥っていた橋本は拒否すると、藤波は自身が起こした「無我」のように、橋本にも別ブランドを立ち上げることを薦め、橋本も長州が"現場監督でいるうち、新日本での居場所はない”"誰にも縛られず思う通りにやりたい"と考えたことから、藤波の話に乗った。
復帰戦を終えた橋本は「僕に出来ることをすることがプロレス界のためだと思ってます。あえて新日本プロレスのレスラーという誇りを持って独立したいと思います」と独立宣言をしてそのまま姿を消してしまう。そして橋本が23日に会見を開き、「新日本プロレスリングZERO」の設立を発表、道場も公開し橋本はかつての付き人だった藤田和之と公開スパーリングを行った後で、この年に旗揚げしたばかりのNOAHとの交流を示唆する。橋本は1・4事変後に全日本プロレスに移籍していた馳浩を通じて三沢光晴と小橋健太と非公式な会談を行っており、三沢は橋本と"自分達の世代は喧嘩しないで交流できていたら"と話し合い、1999年5月1日の全日本東京ドーム大会で橋本復帰戦の場を全日本で設けて川田利明との対戦を進め、橋本も永島勝司氏に相談して了承を得ていたことで決定しかかっていたが、未亡人でドーム大会の実質上のプロモーターである馬場元子さんが「馬場の追悼興行は純メンバーで開催したい」と意向を出したことで橋本参戦が消え、橋本にも直接手紙で丁重に断った。しかし1999年5月1日東京ドーム大会は純メンバーだけでなくFMWやみちのくプロレスなどインディー勢を参戦していたことから、背後にアントニオ猪木の存在のいる新日本プロレスの選手は上げたくないという意向もあったのかもしれない。
2000年5月に三沢らが選手・スタッフが大量離脱してNOAHを旗揚げし、手薄となった全日本は新日本との交流を始めていたが、新日本の所属選手である橋本がNOAHの名前を出したことで、全日本側が不快感を示し、社長となっていた元子さんが全日本との交渉役だった永島勝司氏にクレームを入れ、永島氏も釈明に追われてしまい、また橋本が道場とした場所は藤波が無我の道場として借り受ける予定だった場所で、橋本にはいずれ別の場所へ移ってもらうはずが、橋本が乗っ取り自身の拠点にしまったことで、藤波と橋本の間に亀裂が生じ始める。そこで藤波も「道場も自分の知り合いから借りたもの、それを勝手に使われるのは困る」と橋本を批判。11月13日に橋本を解雇し、橋本も団体名から新日本プロレスの名称を外し「ZERO-ONE」と改めた。だがこの解雇は表向きだけの"偽装解雇"で、新日本は全日本と交流を継続しつつも、表向き解雇にした橋本を使ってNOAHとの交流も図ろうとしていた。そこで新日本から中村祥之氏が橋本のお目付け役として送り込まれ、永島氏や新日本との連絡係となり、橋本も解雇された立場を利用してNOAHとの話し合いを進め、三沢も"偽装解雇"であることも気づきいていたが、橋本は「新日本とは切れている」ことを強調し、三沢は全日本ドーム大会に橋本を参戦できなかった借りがあったこともあって、橋本を応援するためにNOAHに上げることを決意する。
12月23日のNOAH有明コロシアム大会に橋本が参戦し大森隆男と対戦、2001年1月13日大阪大会にも参戦して三沢とタッグマッチながら直接対決を実現させ、試合後にめったにマイクアピールをしない三沢が「次はあるのか、この野郎」とアピール、25日に橋本が3月2日の両国大会で旗揚げ戦『真世紀創造。』開催の会見を開き、三沢率いるNOAH勢の参戦を発表したが、3・2両国は元々新日本名義で借りたものであり、新日本もまだZERO-ONEはあくまで新日本の衛星団体と扱っていた。海外遠征から終えたばかりの大谷晋二郎と高岩竜一が橋本の誘いを受け、新日本との契約更改を保留しZERO-ONEに合流、大谷は橋本がまだ新日本と繋がりを持っていることに気づかず、新日本との契約を保留して合流したが、高岩は橋本から新日本との契約を更改してから合流するように指示されたことで、ZERO-ONEが新日本の衛星団体であることを薄々気づいていた。
橋本はメインで三沢、秋山準とタッグで対戦することのなったが、パートナーはXとされるも、パートナーには永田裕志が名乗りを挙げた。名乗りを挙げた時点では決定ではなく、全くのフライングで、橋本と話し合ってから長州に直訴したが、長州は前向きだったがテレビの問題もあって「無理だ」と返答したことで待ったをかけた。長州はZERO-ONEに関しては藤波主導で動いていたこともあってノータッチで、永田をZERO-ONEに出すにも社長である藤波の了承を得なければならなかったが、藤波の了承を得たことで永田の出場にGOサインが出た。橋本は永田が出場できない場合は安田忠夫を代役に据えるつもりだったという。 旗揚げ戦の日、5000~6000人ぐらい入ればいいほうだと思っていたら、当日券を求めに長蛇の列となり、観客動員も11000人超満員を記録、旗揚げ戦のメインは三沢が投げ放しジャーマンで橋本から直接フォール勝ちとなるが、試合後に納得のいかない橋本が秋山を蹴りつけ、セコンドのNOAH勢やZERO-ONE勢が雪崩を打ってくるように割って入り、そこで小川直也が駆けつけると、橋本に激を飛ばしつつ三沢を挑発すると、三沢は小川にエルボーを浴びせ、藤田和之まで加わり乱闘、三沢は「お前らの思う通りにはしねえよ、絶対!」とアピールして去り、橋本も挑発して幕となったが、旗揚げ戦の真のメインイベントは橋本、三沢、秋山、小川、藤田が一同に揃ったカオス的な空間だったが、今思えば様々な可能性が生まれようとしていた空間だったのかもしれない。
ところがこの旗揚げ戦で大成功したことを受けて橋本は本当に独立へと動き出してしまう。当初、新日本とは旗揚げ戦で得た売り上げを全額新日本に治めて、経費などを差し引いた金額をZERO-ONEに支払うことになっていたが、独立志向の強い橋本が拒否したため物別れとなる。大谷も橋本から独立すると告げられたことで、ZERO-ONEは新日本の衛星団体だったことに気づき、藤波も橋本を再生させるつもりが、本当に独立してしまったことで面目が丸つぶれとなった。だが橋本自身がこれから悪戦苦闘を強いられることはまだ知る由はなかった。
(参考資料、Gスピリッツ DVD Book Vol.1 "破壊王"橋本真也ゼロワン激闘録より)