「合わない」人を愛していたら
自分を抑えることなく、相手を変えようともせずに一緒に生きられるのは、「合う」人だけだと思いそうになるけれど、それは違います。
その人と「合う・合わない」ということと、その人と「共に生きたい・生きたくない」「離れたい・離れたくない」ということは、別のレイヤーにあること。パートナーでも友人でも家族でも。パートナーはとりわけ。
利害が合わなかったり、価値観が合わなかったり、好みが合わなかったり、一緒にいることがいちいち不便だったとしても、ただその人が好きということはある。その人に対して愛がある、ということはある。
自分を抑えることなく、相手を変えようともせずに一緒に生きられるのは、「合う」人だけだと思いそうになるけれど、それは違います。
「合わない(けれど好きな)人」とも一緒にいられる道はあるんです。ほとんど知られていないけど。
「合わない」人と一緒に生きようと思ったら、偶然に頼るか、ヴィジョンと方法が必要になります。
愛とか思いやりとか尊敬とかで一緒に生きられるなら、それは偶然でラッキーな組み合わせ。そのラッキーを大いに喜んだらいいと思うんです。
でも、もうちょっと確実に愛する人と一緒にいようと思ったら、ヴィジョンと方法が必要。それはルールで縛るということではなくてね。
たとえば「僕たち合わないことも多いけれど、共に生きていたいね。そういう関係を目指すことは諦めたくないね。」っていうヴィジョンが共有されるのはかなり有効だし、それがパートナーシップだったらキューピッドの矢が刺さっている間に共有できるに越したことはないです。(もちろんキューピッドの矢の毒が冷めたあとでも話し合ってやれます)
そして方法。
それは決して、昔ながらの「お互い我慢し合いましょう」じゃない。そんなのおもしろくないし、幸せじゃない。
ここをみつけるのがたいへんだったなあ。
中身はまた今度。
でもなんといってもまずは、「僕たち合わないことも多いけれど、共に生きていたいね。」ってお互いが思うかどうか、そのことばを聞き合えるかどうかだな〜。
そこに豊かさをみつけられるかどうか。ちなみに昔の僕は全然見えてなかったけど〜。