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NPO法人 東海つばめ学習会(無料塾)

#13 理事の想い

2023.09.24 08:00

こんにちは、前田です。

想いブログPART2書きました。

私の想いブログは今回が2回目です。

2回目ということもあり、思いきったことを書いてみようというのが、今回のテーマでした。


さて本題ですが、いきなりぶった斬る内容だと思います。

この東海つばめ学習会の理事として活動している私のスタンスとして、

私は「教育」という問題に対して、「勉強」というテーマはある程度度外視しているということです。

お前は何を言ってるんだ!と喝がとんできそうなのですが。


「勉強」に対して否定的な見方を持っているわけではありません。

学生時代に勉強をして、希望の学校にいけて、希望の仕事に就いて、

このように「勉強」というものが理想としている人生を歩めるための一つの手段として

存在していて、そしてそのような人生を歩めると幸福度も伴うと思いますし、

そういった面から見て良いことだと思います。

そして、学生時代に努力してそれに対して成果をだすというこのプロセスも

後の人生の自信につながると思いますので重要だと思っております。

ですので私はみなさんが、勉強をしたい!と思っているのであれば頑張って欲しいと思ってます。


しかし、どういうわけかその「勉強」を教えている自分自身にしっくりこないんです。

個人的に、勉強して希望の学校に受かりました!めでたしめでたし!幸せ!というのは

あまりしっくりこず、その時感じたみなさんの喜びは本物なんでしょうが、

その喜びが永続的にもたらされるということはありませんし、

やはりもっと大事な何かがあるはずなんだと思っておりました。


最近自己探求をしておりまして、そこで分かったことがあるんですね。

それは、私は人の深く深く根ざしている知恵を共有したいということです。

それは真実といっていいかもしれません。


何を言ってるんだ?みなさんこう思われているかもしれません。

その知恵というのは、ハッと気づかされるような、

今までの人生の流れでどこか点と点が繋がったかのような、

そのようなものと個人的に定義しています。


それは必ずしもインパクトがあるものでなくてもいいと思っておりまして、

軽いものでも十分だと思います。

その知恵というのは、私たちの良いと思われる出来事の中にもありますし、

悪いと思われる出来事にもあると思っております。

いや、どちらかというと悪い出来事の方に多いのかもしれません。


具体的にどういうものかといいますと、私の経験を踏まえお話しします。


私は高専という5年制の高校(1〜5年生まで在学中はずっと同じクラスです)におりました。

学校から自宅までが遠かったため、学校の寮で生活をしておりました。

しかし、その生活に飽きを感じ、2年生の半ばごろから自宅から通学することにしました。

なぜかというと、

通学をすると他の学校の人とも関わることができると思ったからです。

そういった想いで始めた通学のわけですが、そこではじめて気づいたことがありました。


それは、通学の定期代がすごく高いということです。そんなに高いの?!とびっくりして、

そして申し訳なさを感じておりました。

それに加え朝も早く、4時半ごろに起きる生活です。

それ自体は問題ないのですが、母親も一緒に起きてくれ、私の弁当を作ってくれておりました。

そこには当然嬉しさを感じるのですが、申し訳なさも感じていたことは否めません。

そして一年半経ち、4年生(大学一年生の代です)になる時一人暮らしをしたいと思い、

家族に話しました。そしてレオパレスを契約することになります。

初期費用、退去の費用、家賃、そんなの知りません。

学校を卒業し、レオパレスを退去する時初めてそれらの金額を知りました。

そんなに高いの?!通学の定期代以上の衝撃で、申し訳なさもそれ以上でした。


ということがあり、学生時代は特に母親に対して申し訳なさ、

罪悪感といった方が近いかもしれません、それを感じておりました。

そのため就職後、母親に母の日にプレゼントを贈るようにしました。

そこには純粋に感謝の気持ちもあるのですが、

どこか罪滅ぼし的なニュアンスも入っていたと思います。

そうすることでしか、その罪悪感を誤魔化すことができなかったのです。


最近の話です。とある人から「親は子を愛したいもんだよ」と聞きました。

それを聞いてビビッときました。どこかで点と点が繋がったような感じです。

そこでビビッと感じるには知識の前提条件が必要だと思うのですが、

私は運良くそれを知っていました。

「因縁果の道理」です。


現実(果)は、因と縁が合わさってはじめて起きるというものです。

因というのは自分の想い、自分の行い、縁というのは他人の想い、行いです。

つまり自分の想い行い(因)のみでは現実(果)にはならないということです。

必ずそこには他人の想い行い(縁)が介入しているということです。

私は高専時代、他の学校の人たちと関わりたいなぁ、

一人暮らしをして自由に暮らしたいなぁと軽率な想い(因)を抱いており、

そこに母親の想い(縁)が介入してそれが現実となっていたのだと思います。


母親が当時どう思っていたのかは本当のところは分かりません。

めんどくさいなぁ、また何か言っとるなぁ、このような想いがあったのかもしれません。

しかし、おそらくそれは表面的な思考であって、潜在的にはそう想っていないはずです。

おそらく「子を愛したい」そういう想いがあったのではないかと思っております。

事実を確認したわけではないのに、

自分でこういったことを言うのは本当に本当におこがましいことだと思うのですが、

こう考えるとつじつまが合うのです。


たしかに、通学にしろ、一人暮らしにしろ、私の想いがあり現実になったわけですが、

そこに母親の「子を愛したい」という想いがなければ、そうならなかったのです。

私の世界ではそのように解釈できますが、

例えば母親の世界だと、子を愛したいという因があり、私の軽率な想いが縁となり、

それが現実になったという解釈ができます。

お金も労力もかかることは大変です。大概は嫌だと感じられることでしょう。

しかし、それを成し得た後は、

愛しか残らないので、これは母親の望んでいたことなんだと思います。


つまり出来事、現実というのは人と人との意志のマッチングによって起こるものなのだと思います。

私の意志100%ということではない。母親の意志100%ではない。お互いイーブンイーブンです。

だから罪悪感を感じる必要がないということです。お互い様なのですから。

お互いが潜在的にやりたかったことなのだと思います。


この考え方には賛否両論あると思います。

もちろん、そこで私は母親に対して感謝をしなければいけません。

大事なことはそこで罪悪感を感じるという悲観的な態度になる必要はないということです。

そこで罪悪感を感じ日々の生活に制限をかけているのであれば、

それはもったいない話だと思いませんか?


私にできることは、私にできることをするだけです。

それが母親としても家族としても、

世界の人々からしても喜ばしいことなのではないでしょうか。

このような罪悪感を手放し、考え方をシフトすることができたのも、知恵あってだと思います。



“教育者として何が重要なのか、私にできることは何なのか。”



ここに知識と知恵という2つがあるのなら、私が提供できるのは知恵です。

これが冒頭にかきました勉強はある程度度外視しているという理由になります。


私の母親に対する罪悪感からの解放(全て解放されたわけではありません。

やはりまだ残っています。)というのは知恵があってはじめて感じれたことです。

そして、その知恵は外ではなく内に全てあると思っております。

つまりは自分で答えを探す必要があるということです。

そのために私にできることは「対話」です。


そう、やはり対話をしている自分が好きなんですね。

勉強を教えている自分でなくて、お相手の考えを整理する対話をしている時の方がしっくりきます。

ですからこれが私の生き方なんだと思います。


子供たちにも悩みはつきもの、勉強を教えていただいている先生にも悩みはつきもの、

もちろん私にも悩みはつきもの。私はそのサポートをしたい。

当然、悩んでいる時は辛いです。

しかし、自分の中にスッと答えを見つけることができた瞬間、体が軽くなります。

コインには必ず表裏があるよう、物事も必ず両面の性質があります。

悩みが裏面だとしたら、表面が幸せなのでしょう。


つまりは私たちは逆説的に、幸せになるために悩んでいたということです。

その一歩を踏み出していきましょう。


東海つばめ学習会

前田直洋

(先日行ってきた沖縄県西表島ピナイサーラの滝の上から見る西表島の風景)

(その崖から覗きこむ前田)

(ピナイサーラの滝、下から見るとこんな感じ)