シアター形式の必要性
実際にあったこと、体験したことを語り、その時に感じていた感情を即興で、打ち合わせなし、台本なしでお芝居として表現するプレイバックシアター。
プレイバック(再現)したものをシアター(劇場)形式で観ることに、意味がある…のだと、思うのですが、正直、はっきりとはわかりません。
こんな感じかも…という感覚はありますが、プレイバックシアターを実践する人、学ぶ人、それぞれ、様々に受けとっているかと思うので、決めつけるのもどうかと思うので、断言できないなぁ…というトコロです。
わたしが感じているのは、シアター形式で表現することで、第三者であるアクター達の表現により、主観的だったストーリーに他者の視点が入り、それを観たテラーは、その出来事を客観的に見つめ直すことができる、ということ。
テラーには新たな視点や、可能性が提示され、視野が広がって、氣づきが起こる場合もある。
それらが、もたらされないことも、ある。
テラーが「私が言いたかったのは、そうじゃない」とか、「これは私のストーリーじゃない!」と、不快に感じることも、実は、あります。
そうなった場合、アクターに何かしら課題がある場合があるのですが(このことについては、また別の機会に)、決して、失敗ではないと、わたしは思っています。
もちろん、「私のストーリーじゃない!」と不快に感じているテラーを前にして、心が痛まないと言えば嘘になりますが、殊更、自分が悪いとか、失敗だったとか、感じる必要はないのです。
テラーが語り、それをアクターが表現する。
その表現をテラーと観客が観る。
テラー
「こんなことがあって、こんな氣持ちだったの」
アクター
「おやまぁ。そんなことがあって、こんな氣持ちだったのですね?」
観客
「あんなことがあって、ああいう氣持ちだったのね。そうよね、よくわかるわ」
プレイバックシアターは、ちょっとだけ大掛かりな、コミュニケーション・ツールです。
わたし達の普段の会話で、ぱちっとお互いの氣持ちや感覚がはまって、「そうそう!」と共感しあえて楽しく盛り上がることもあれば、イマイチ噛み合わなくて「あれれ?」と頭を捻ることもありますよね。
プレイバックシアターも、同じなんです。
ただ、普段の会話と違うのは、噛み合わなくて氣持ちが理解できなかったり、分かち合えない場合も、「今はそうなんだ」と分かち合えないことを理解するという、成熟した状態で在ることが前提になっていることです。
シアター形式で氣持ちを分かち合うには、真に大人で在ることが、とても重要です。
プレイバックシアターの場では、自分にとって必要な事しか起こらない、という理解があると、何が起きても、起きなくても、それを受け入れる事が出来ます。
また、自分の体験談や氣持ちを語ってシェアすることで、その場にいる人々の氣づきの助けになるという理解も、大切です。
わたし達は、集団的無意識ですべての人々と繋がっているので、個人的な体験や感情は、必ず、誰かの礎になるのです。糧になるのです。
言葉で語られたものを演技というカタチで視覚化することで、それが促進されると感じています。
つまり…
シアター形式である必要性は、関わる人々の精神的な成長や、魂の成長に、貢献するから…なのかもしれません。