チャンピオンカーニバルヒストリー⑨小橋が念願の初優勝!四天王プロレス時代の突然の終焉
<1999年の出場選手>三沢光晴、田上明、小橋健太、秋山準、大森隆男、高山善廣、ベイダー、ゲリー・オブライト、ジョニー・エース
1998年夏からジャイアント馬場体制に疑問を持った三沢が現場監督に就任、三沢は現場を含めて改革に着手したが、1999年1月に馬場が死去したことで全日本プロレスは大きく揺らぎ始めていた。
99年度は三沢が仕切る最初のチャンピオンカーニバルだったが、川田利明は右腕の骨折で欠場、91年からエントリーしていたスタン・ハンセンは自身の衰えからチャンカンは卒業、トップ外国人選手から一歩引いて準レギュラー扱いとなり、スティーブ・ウイリアムスはWWEへ転出したたため参戦せず、代わりに98年度の世界最強タッグから全日本のレギュラーとなったベイダーが参戦、ベイダーは1月15日横浜文体での小橋とのシングルマッチに勝利した後、3・6武道館で田上を破り三冠ヘビー級王座を奪取することで、ハンセンやウイリアムスに代わるトップ外国人選手へと昇り詰めていた。 参加選手は三沢がリーグ戦による選手の負担を軽減するために10選手に限定、外国人選手もベイダー、オブライト、エースに限定されたが、他団体枠も設けられ、大森とのタッグ"NO FEAR"でフリーながらもレギュラー参戦していた高山、みちのくプロレスから全日本にレギュラー参戦していた新崎がエントリーした 。
3月26日の後楽園大会から開幕し、小橋は27日の後楽園大会では大森、31日の新潟では三沢、4月2日岡山で高山、4月4日広島では秋山、4月5日の博多で田上と連勝、4月8日大阪でのベイダーとの直接対決ではフルタイムとなる。11日後楽園でのエース戦でもフルタイムドローとなるが、14日岩手でのオブライト戦に勝ち、7勝0敗2分と負けなしで優勝決定戦に進出、決定戦の相手は三沢には敗れ、小橋とは引き分けたものの、他からは全て勝利を収めたベイダーだった。 四天王の中では唯一優勝のない小橋の初優勝に期待がかけられるも、ムーンサルトプレスをキックアウトされた小橋は剛腕ラリアットを狙ったが、ベイダーはかわしてジャーマンを投げた後で逆にムーンサルトプレスを投下、そしてパワーボムからベイダーアタックで3カウントを奪い、ベイダーが三冠王者のままで初優勝を飾り、小橋がまたしても涙を飲んで優勝を逃してしまったが、95年に三沢が優勝してからは、小橋にとってチャンカンは鬼門になっていた。
<2000年の出場選手>三沢、川田、小橋、田上、秋山、大森、高山、本田多聞、井上雅央、泉田純、ベイダー、ウイリアムス、エース、マイク・バートン、ウルフ・フォークフィールド、ジョニー・スミス
2000年は三沢がかねてから提唱していたトーナメント方式を25年ぶりに復活させた。1月にオブライトが急死しており、アジアタッグ王者となっていた井上、WWEから移籍しエースとタッグを結成していたバートンが初エントリー、WWEを退団したウイリアムスも復帰を果たしていた。
トーナメント1回戦ではスミスが本田、小橋がエース、ベイダーが高山、三沢が川田、バートンが井上、泉田がウルフ、ウイリアムスが田上を破って2回戦へと進出、3月26日の愛知県体育館では秋山が大森と対戦も、試合開始と同時に大森がアックスボンバーを浴びせて3カウントを奪い、7秒殺で2回戦へ進出する。 この勢いに乗った大森は2回戦でバートン、準決勝で泉田を破ったウイリアムスを破り決勝へ進出、小橋は2回戦でスミス、準決勝で三沢を破って決勝へ進出する。
優勝決定戦は大森がミサイルキックやダブルニードロップと攻め込むが、アックスボンバーを受けきった小橋が猛攻を浴びせ、ターンバックルへのパワーボムからの剛腕ラリアットで3カウントを奪い、念願の初優勝を飾った。だが舞台裏では全日本の方針を巡って、社長である三沢と馬場元子オーナーの間に亀裂が生じ始め埋めがたいものになってしまっていた。
次期シリーズである「スーパーパワーシリーズ」が終わると、三沢が社長を辞任したことを受けて、三沢を含めた選手26人、練習生1人、大半の職員が全日本プロレスを離脱する事態が発生、三沢体制は僅か1年あまりで崩壊、小橋の優勝は1回だけとなり、秋山が優勝したのはNOAHからUターンした後の2013年だった。
全日本は四天王で唯一残った川田、渕正信、太陽ケアら選手、スタッフ6人で継続され、チャンピオンカーニバルも馬場元子、武藤敬司と体制が代わりながらも継続され、NOAHから全日本に戻り社長となった秋山が全日本の看板を守りつつ継続されている。
(チャンピオンカーニバルヒストリー完)