【日向市における相撲の興行<※富高地域の記録>】
【日向市における相撲の興行<※富高地域の記録>】
<明治期・大正期の巡業状況>
まず、資料本「日向市の年表」(平成22年発行)の中から、”相撲の興行”に関する最も古い記載を抜き出してみます。
●明治40年10月 大阪相撲が美々津で興行
●明治41年2月 東京相撲が美々津で興行
●大正3年10月 美々津下町浜で大阪相撲の興行
★大正3年10月 富高村日知屋畑中で大阪相撲が興行
★大正5年2月 富高新町で大阪相撲が興行を行う
・・・「日向市の年表」は、各種新聞記事に掲載された情報を基に構成された本と思われます。よってここに記載されていない(新聞記事になっていない)事実も多くあり、相撲の興行はもっと以前から行われていた可能性はあります。
いずれにしても、これらの記載から、少なくとも明治末期には相撲の団体が当地域を訪れていたことが伺えます。また★マークの記載は富高地域に関するものですが、富高では大正3年すでに興行が実施されていた事実があるようです。
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<昭和期(戦後)の状況>
(1)双葉山の引退興行
「昭和21年2月28日 双葉山の引退披露大相撲が富島町三菱広場で行われる(入場料10円、利得金は戦災者、引揚者の救護費に寄付)」(「日向市の年表」平成22年発行より)
●双葉山は戦前に活躍し前人未踏の69連勝を誇った、人気と実力を兼ね備えた大横綱です。昭和21年、富島町(現・日向市)を双葉山(昭和20年引退)の一行が訪れ、引退興行を行ったといわれています。入場料が必要だったようで、今でいうチャリティーイベントだったのかもしれません。
<※蛇足:某大相撲誌によると、昭和21年3月に時津風(双葉山)・不動岩の一行が鹿児島巡業に来た~との事ですので、おそらく富島町(宮崎県)の次は鹿児島県に足を延ばしたものと考えられます。>
会場は富島町の「三菱広場」(「日向市の年表」より)との事ですが、その場所の詳細は不明です。戦時中、三菱が石油工場を作る目的で富高駅の東側から畑浦方面までの土地(現在の中央通線あたり?)を広く取得したといわれており、「三菱広場」とは現在の富島高校の周辺のことを指すのではないかと思うのですが、断言はできません。昭和23年に新制・富島高校が現在地に新キャンパスを設けるまでは、富島高校の前身である「富高農学校」は本町(現在の市役所の土地)にありました。(※なお当初、鶴町の新キャンパスは新設の学科のみ使用しており、農林科はそのまま本町キャンパスでの授業を継続していました。つまり富島高校には昭和30年頃まで2つのキャンパスが存在していました。)この引退興行が執り行われた昭和21年~22年当時の鶴町周辺は、おそらく人家は少なく主に田畑が広がっており、いま校舎のある付近は終戦頃まで三菱関係者が使用していた建物を「青年学校」→「富島西中学校」というかたちで教育施設に流用していた頃かと思われます。(※一時期、富島中学校が西と東に分かれていました。ちなみに、東中学校は現在の富島中学校の敷地で、昭和23年度初頭に西と東の学生が集約された際にはこの東中学校のキャンパスに統合されました。)
この双葉山の興行を実際に見に行ったというAさんの話によると、「双葉山が焼酎を回して一気飲みしたのにビックリした」との事でした。
●なお、この引退興行の際、双葉山は「迎洋園」も訪れています。(「日向写真帖」に記念写真が掲載されています。)「迎洋園」は今でこそ閑静な住宅街ですが、この当時は山全体にツツジが植栽されており、管理者の綾部氏の協力のもと毎年春に「つつじ祭り」を大々的に開催していた、日向市(当時は富島町)を代表する自然豊かな観光名所でした。古くから住んでいる地元の方は、この付近を迎洋園という地名ではなく、所有されていた綾部氏の名前をとって「あやべ」と呼ぶ方もおられます。前出のAさんいわく「双葉山はアヤベに泊まったのでは」との話も出ましたが、横綱だけでなく他にも多くの関係者が共に来町していたと思われるため、おそらく迎洋園では観光にとどまり、宿泊についてはこの当時最も大きくて最も立派な旅館だった駅前の「源屋(みなもとや)旅館」に一泊したのではないかと思われます(これは想像です)。
(2)大相撲の地方巡業(戦後編)
●戦後、毎年ではありませんが、幾度か富高地域で大相撲の巡業が行われたようです。興行主が呼ぶことで来てもらえるイベント(いわゆる売り興行)で、本場所を終えたばかりの有名な力士たちの取り組みを目の前で見られるとあって大人から子供まで注目を集めました。富高地域においては、本町にある旧・富島高校のグラウンド(現在は放送大学の裏にある日向市役所の職員駐車場)に臨時の土俵が造られました。旧グラウンドは校舎のある土地より一段低い位置にあり、大勢が観戦するには都合がよく、また屋外で実施されたので誰でも自由に見ることができました。
余談ですが昭和50年頃までは、地域の祭りやお祝い行事などで、通称「草相撲(くさずもう)」と呼ばれる、一般の素人(しろうと)力士たちによる相撲大会がよく開催されていたとの事です。財光寺の五十猛神社で開催されたり、昭和39年の日向市役所・新庁舎落成の際にも執り行われたようです。
●富高における大相撲巡業について幾人かの古老に伺うと、いつなのかハッキリしませんが、①「昭和27~29年頃の話」をされる方と、②「昭和31~32年頃」の話をされる方がおられました。特に②昭和31~32年頃の興行は各人よく印象に残っているようでした。
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①<S27-29頃?の興行について>:ある女の子Bさん(当時)が知り合いに頼まれて「鶴ヶ嶺」(つるがみね)のサインをもらいに行ったことがあるそうです。鶴ヶ嶺は岩国屋旅館(のちの岩国屋電化)に泊まっており、そこは顔見知りだったのでなんとかお願いできたそうです。当時の鶴ヶ嶺は若手の筆頭で人気があったのですが、まだ上位でなかったので小さめの旅館に泊まっており、他の上位陣は大きな旅館、例えば駅前の源屋旅館などに泊まっていたようです。
鶴ヶ嶺はS28年3月新入幕、S31年1月場所で横綱・鏡里と争って同点優勝するなど、人気だけでなく実力も確かな力士でした。鶴ヶ嶺が若かった頃であり、前出のBさんの当時の年齢なども考慮しますと、おそらくこのエピソードは昭和28年または昭和29年頃?の可能性があります(確証はありません)。
②<S31-32頃?の興行について>:幾人かの古老が語っておられるのが、この昭和30年代初頭の興行についてです。初代若乃花(わかのはな)や鏡里(かがみさと)、いずれも当時の大横綱ですが、こうした名力士が1メートルほど先でたき火にあたっているさまを実際に見た方々は一様に「大きな男だった」と今もなお感嘆の言葉をもらします。
鏡里がS33年1月に引退しており、力士たちが焚火にあたっていた(寒い季節)という証言を踏まえますと、昭和31年の冬(S32年初頭)、もしくは昭和32年の冬(S33年初頭)頃の興行ではないか?と思われますが、断定はできません。
この昭和30年代初頭の興行においては「若乃花 対 草相撲王者・トミヤマ氏との対決」が印象的だったとの事です。対決と書きましたが、いわゆるエキシビションマッチ(模範試合)だったと思われます。この若乃花は、平成初頭に「若貴(わかたか)ブーム」で人気のあった若乃花・貴乃花兄弟の叔父(おじ)さんにあたる初代若乃花です。いっぽう、トミヤマさんは素人相撲の力士の中では「県で一番強い」と言われた剛の者であり、草相撲の相手を片手で投げ飛ばすほどだったそうです。そんな地元の実力者と、「土俵の鬼」とうたわれた横綱・若乃花の取り組みがみられるとあって、同じ草相撲仲間も沢山応援に来ていたようです。その頃小学生で、実際にこの勝負を目の前で観戦したCさんが、当時の状況を詳しく教えてくれました。彼は学校を終えて、現場へ急いで駆け付けたそうです。「トミヤマさんなら横綱を負かすんじゃないか?」そんな空気が周囲にあったそうです。トミヤマさんは若乃花より大きな体をしており、向かい合った横綱も「だいぶ大きいなー」と感心していたようです。まず、最初の取り組みにおいてはトミヤマさんが横綱を投げたようで、観衆は「やはりトミヤマさんは強いなぁ!」と湧いたそうです。すると立ち上がった横綱が「もう一番いこう!」と言って、今度は自分の手をうしろに組んだ状態でこう続けました。「全力でぶつかってこい!」。トミヤマさんは言葉通りにぶつかっていきましたが、横綱はビクともしません。回しをとっても動かない。そのうちに横綱が「そりゃー」と言いながら体をひねると、トミヤマさんは土俵の上から飛んでいったそうです。手を使わずに相手を投げ飛ばした横綱のあまりの強さに、観衆は「やはり本相撲の横綱はスゴイ!」と度肝を抜かれた、との事です。
<おわり>
<資料編 / おわり>