「無知」とは
通っているヨガスタジオの「サットサンガ」にはじめて参加しました。
サットサンガとは、サンスクリット語で
sat(サット)…純粋、真理
sanga(サンガ)…集まり、集合体
という意味をもちます。通常、スタジオではアーサナ(ポーズ)をするクラスに参加していますが、このサットサンガではヨガ哲学について先生から話を聴く。10人ほどの参加者と共に、じっくりと先生の話に耳を傾けるのですが、これがとても分かりやすく、自分の中へ浸透していきました。備忘録として記します。
今回のテーマは、ヨガ哲学の中で5つの煩悩といわれているものの一つである「無知」について。煩悩は嫌なもの、持ちたくないものとみられるけれど、そのことを経験をし、気がつき、知ることでようやくそれから解放されるものであるという。経験なくして解放なしということ。
→無意識的にとらわれてしまう5つの煩悩とは、①無知②エゴ③執着④憎悪⑤生命力のこと。そして、煩悩の中でもその根底にあると言われているのが「無知」であり、無知とは次の状態のことを指す。
①無常を常
身体や心、行動や考え方など全てのあらゆるものは変化する。しかし、目で見えている世界がこの先もずっと続くものだと思い込んでしまっている。それ故、今できること、今すべきことに焦点が当たらず、見過ごしている。目でみえる、見えないに関わらず「無常」を感じられると、今に集中できる。
②不浄を浄
身体の中の血液やリンパ、発する言葉、自分がよいと思っていることなどは、単に自分がきれい(浄)と感じているだけであり、もし見方や立場が変われば変化するものでは? 例えば、美しいパッケージと思い購入したお菓子が実は劣悪な環境下で製造されていたものであったり、子どもが知らないが為に無意識に発している言葉が周りの人を気づ付けていたり。知らないことにより、引き起こされている悪(不浄)は意外と多い。
③苦を楽
「楽」だと思い選択していたことが実は自分を苦しめることに繋がっている。例えば、スマートフォン。便利さのあまりに安易に利用してしまうが、実は思考力や想像力などの能力を低下させることになっていたり、SNSにより実際に「体験する」ことが欠如しがちになることも。
④自己ならざる者を自己とみなすこと
ヨガでは、真我(本当の自分、本質)を見つけていきたいとされている。氏名、職業、性格、身体、心などこれらすべては変化していく「わたし」。一方で、変化しない「わたし」があり、これを問いつづけるのがヨガ。しかし、知らずうちに勝手に自分とはこうだ、と見誤っていることが多い。「本当のわたし」と「エゴ」は似ているが異なるもの。
1~4のように、知らないこと(無知)により引き起こされていることはとても多い。目にみえることだけに頼りきってしまい、それが全てだと思い込み、見誤ってしまう。「見えない世界はまだいっぱいある」という事実を知ることがとても大切であり、それが本当の意味での「知る」ことになるのだろう。
決して、情報の量ではなく、自分の中で感じられる「常でないこと、不浄なこと、楽なこと、自分とは」を経験した上で、”もしかしたら自分は無知なのかもしれない”と気づき、考えてみることが必要であり、そこからはじまる。
それにしても、ほんの1時間程の時間で聴いたサットサンガのヨガ哲学のお話し、実に奥が深い。本で読むこともできるけれど、やはり人から人へと伝わる力は偉大なり。