呼吸「法」って何?法律か何か?
トランペットのレッスンをしていて痛感するのが、言葉には順番ができてしまうという点。
どういうことかと言いますと、例えば自転車に乗ったことがない人に乗り方をレクチャーすることになったとしましょう。
ハンドルを握った状態でサドルにまたがる
サドルに座る
片足をペダルに乗せるしかしまだ踏み込まない
もう地面についているもう片方の足を離したと同時にペダルに乗せていた足で踏み込む
そのときにブレーキを握っていないように注意
自転車に乗れる人はだいたいこんな順番でこんな方法ですよね。
でもこれ、自転車完全に未経験で知識ゼロだったら説明になってるのでしょうか。
そもそも「サドルって何?」「ペダルに乗せる足は右?左?」「ブレーキッテナンデスカ?」みたいなことも起こるわけです。
方法を言葉で解説すると、どうしても順番に言わなければならないのですが、実際のところ同時進行しているうごきもあるし、ハンドルを握っているからサドルをまたぐことができるという関連性もあるし、言葉にはしていないけれど、その先もずっとハンドルは握っています。違う方法でもできることが多いので、そうなってしまうと可能性が異常に広がってしまう。箇条書きにしたことで次に追加された情報が新鮮になってしまい、流れを組み立てていくというよりもひとつひとつ完了して進めていくものだと誤解される可能性も出てきます。
トランペットも同じで、すべてが一連の流れ、関連性があって組み立てられていくのですが、順番に解説することで、ひとつやっては解除してしまったり、順番が違っていたり、方法が若干違ったので方向性が変わるなど、言葉によって起きる食い違いがたくさんあります。使う言葉でも受け取る側には理解できなかったり、まったく違うことが起きたりしますし。
だからレッスンでは先生のからだの使い方を事細かく観察して、それを真似してみるとか、そのうごきがなぜ生まれるのかを研究するとか、そういった「結局何をしているのか」がとても重要になります。
楽器の演奏は、数学のようにそれまで知らなかった公式を先生から教わり、問題に当てはめていけばいいものではなく、積み重ねて関連させていくことに意味があり、そのためには情報に従うだけではない自分自身の個性と向き合った方法を見出すことが上達へプロセスです。
しかし、それは教える側は大変です。生徒さんによって全部伝え方が違うのですから。そこで、できるだけ全員が同じイメージを持ってもらえるようにマニュアルを作りたくなる人が結構いるんですよね。
電車の広告とか雑誌とかでよく見ませんか?「〇〇式」とか「〇〇法」なんて名前つけちゃったりする本とか。ダイエットとか健康とか体に関する内容に多いですよね。
別に片っ端から読んだわけではありませんが、知ってる限りでわざわざ差別化するような内容ではないな、というものばかりでした。〇〇式と銘打ってしまえば完全オリジナル商品、必殺技を編み出した中国の山奥にいる仙人のような存在になり得る可能性を感じるので、そう呼んでいるのでしょうが、僕は嫌いですそういう姑息なの。
でも、その〇〇式が見事にどハマりしちゃう人もやっぱり中にはいて、その人が今度熱心な信者になって口コミやら何やらで人がドカドカ集まってくる。そしてどんどん宗教的になってくる。
楽器の演奏も体を使うものですから、やはり〇〇式が出てきます。ね、何でしたっけ(書いていて本気で忘れ、あ、)腹式呼吸とか胸式呼吸とか。なんですかあれ?呼吸は呼吸器系の運動によるもので、それ以上でもそれ以下でもありません。なぜ自分の意思で体の全てをコントロールしようとするのかそれがまず謎。
そうではなく、呼吸の仕組みを正しく理解して、それが実行できていることを確認するだけで良いのです。なぜ人間は無謀な進化を望むのか。ニュータイプになりたいのか。だったら宇宙(そら)に行けばいい。また話が逸れた、失礼。
今ちょうどハイノート本の呼吸に関する部分を再構築しているところで、確認がてらいろいろネットを徘徊しているのですが、人間の呼吸の仕組みをきちんと説明せずに(できないのかな?)神秘的な解説をしているところもたくさんあって、やっぱりそうしたものほど「呼吸法」という名前を付けているように感じます。なんだ呼吸「法」って。法律か何か?
まるでトランペットの演奏に特化した呼吸の方法がある印象を持ってしまいますが、呼吸はそもそも生命維持活動で、そこから逸脱した考えを持つのは危険だと僕は思います。
ハイノート本を再構築するのがあまりにも大変すぎてこのブログを書いて逃避していました。仕事に戻ります...
荻原明(おぎわらあきら)