偉人『瀧廉太郎 第2弾』
先週2023年9月29日の『瀧廉太郎 第1弾』に続き今回も早逝の天才作曲家瀧廉太郎を取り上げる。今回は彼がどのように音楽と出会い、その才能を生み出してきたのかを子育てに活用できる側面から話を進めていきたいが、「毎回前置きが長いのではないか? 忙しい人にとっては合理的に結論が欲しい」という身内の意見を受け入れ、今回は冒頭で瀧廉太郎から学ぶ子育てのヒントを提示して進める。
1、6〜9歳までの集中力が短い頃に好きなものや夢中になるものを与え集中力を伸ばす
2、その集中力を伸ばすタイミングを絶対に逃さない
3、本人がやりたいと言ったことをとことんさせる
4、子供が帰路に立ったときには助言はするが結論は子供に出させる
5、親が望まない道に子供が進んでもそれを受け入れる
上記のことが子供の潜在的な能力を呼び起こすとともに楽しさを見つけ逞しく生きていく方向を子供自身が決断し、生きていく糧を見つけることに繋がる。子供がやりたいと決意を固めたものに関してはさせるべきであり、親が望まないものであったとしても容認をしなければならないことだってあるものだ。そして帰路に立って悩んでいる子供に対して親は助言はするが親の出す結論を強制しない、子供が選んだ道を邁進することができれば『我が人生はかくありき』と納得するのだ。だからこそ自分の人生に責任が取れるというものだ。
さて本題に入っていこう。廉太郎が小学校でいじめをどのように回避したかを前回記したがかなり世渡り上手である。如何に行動すれば事態が変わり安定するのかを考える賢い子であった。しかし音楽の専攻に関してはその廉太郎でさえも予想だにしない大きな壁が聳え立っていたのである。
蓮太郎が音楽と出会ったのは大分竹田の小学校へ入学した時である。学校にあったオルガンと出会い、その音色に魅了されていく。教師の指導を受けてオルガン演奏の腕はメキメキと上達しやがて蓮太郎は音楽の道に進むことを熱望する。しかし父吉弘は武家の家柄の長男が女性が趣味として演奏する音楽を生業とするために学ぶことを快く思わず、音楽学校への進学はもとより演奏することにも猛反対であった。明治政府の要人の官吏として働いていた父はやはり息子廉太郎もその道へと進むことこそが当然と思っていただろう。新しい時代とされた明治時代でありながらも封建的なものは残っていたに違いない。父が一向に認めてくれないことに悩んだ廉太郎であったが助け舟が入るのである。
ここで前段の子育てのヒントを確認しておこう。1、集中力が短い年齢で廉太郎は姉妹の弾くピアノやヴァイオリンに触れて自らその音色を楽しむ6〜9歳までの時期があった。2、集中力を伸ばすことが12歳で出会ったオルガン演奏で実行された。
廉太郎が音楽の道へ進むことを唯一後押ししたのが父の弟であり叔父の瀧大吉である。大吉は東京で活躍する前衛的建築家で既存の枠を越えようとする甥の生き方に共感し、自身の生き方である時代の先駆けを甥の廉太郎の人生にも見出していたのかも知れない。
叔父の大吉は父吉弘の説得に乗り出し「天分を全うさせた方が本人のためではないだろうか」と説き伏せ、父は最後に折れて受け入れ廉太郎の東京音楽学校の受験を承諾したのである。
叔父の手助けにより廉太郎は音楽の道に進むことができた。3、本人がしたいと願ったことを実行できたのである。本来は親の理解が叔父よりも先にあったほうが良いのかも知れないが、親でなくても理解者が周りにいることは大変幸せなことである。
1894年9月に廉太郎は東京音楽学校、現在の東京藝術大学に史上最年少の15歳で合格を果たしている。猛勉強に猛勉強を重ねた廉太郎は入学当時から話題の人となり、『五重塔』や『努力論』を世に送り出した日本近代文学を代表する作家幸田露伴の妹延(のぶ)に才能を見出され、驚くべきスピードでピアニストに必要な技量を磨いていった。誰しもが廉太郎のピアニストとしての成功を疑わなかったが、彼の前にまたもや大きな壁が聳えたのである。それが延の妹幸(こう)である。彼女はヴァイオリニストとして活躍するのであるが、実は姉延と同様に小さい頃からピアノの英才教育を受けており、そのピアノの技術も蓮太郎を遥かに超えるものでその差をまざまざと見せつけられた廉太郎は彼女の才能に敗北感を味わったのである。また海外への音楽留学生として蓮太郎よりも先に幸が選抜されたことは彼の夢見ていたピアニストの夢を作曲家として転向させるには十分であった。
このような自分の才能を遥かに凌ぐ才女の登場で落胆はしたがそのときにも叔父大吉の支えがあり乗り越えている。4、子供が帰路に立ったときに支える人物がいて助言をもらえることも迷える子供にとっては重要なことである。
唐突に話が変わるのだが廉太郎の才能と努力が太刀打ちできなかった英才教育と現代における早期教育について話を少しだけいておこう。
ベビースイミングやベビーマッサージは多くの母親が習い事の選択肢として考えたり、我が教室も新生児から通う子もいる。これらの習い事は子供の生まれ持った力を引き出すもので早期教育ではなく、原始反射への働きかけを十分に行うことができるものである。その原始反射にしっかりと働きかけておけばバランスの良い微細運動や身体の使い方、愛着形成、物事をしっかり見ることを獲得できる土台が出来上がる。その土台の上にしっかりと物事を順序立てて促していけば大抵のことは平均値より遥かに上回る結果が得られるのだ。私はそれを早期教育とは捉えておらず、乳児の本来持って生まれたものを最大限に引き出す心身発達を促すものと考えている。
教育とは心身の発達を促した状態で積み上げる学びの教育である。その教育が早いか遅いかはたいして子供の成長には関係がない。たとえば読み書き計算が早くできたからといって天才かといえば小学校4年生の壁を越えられない場合もある。しかし早くから教育をして盤石な成績を上げる子もいる。その逆で読み書き計算を小学校入学から行い小学校では成績が芳しくなくても中学で伸びる子もいる。一概に早期教育がより良い結果を生み出すとは限らないのである。それよりも原始反射に働きかけ物事を理解し獲得するコツを容易に掴む促しをしっかりと行うことが重要である。
一方、英才教育は早期教育とは大きく異なり、ある程度の成果を見出すための厳しい教育とその道を牽引する良き指導者が必要である。言葉を裏返せば趣味程度の習い事ではなくプロを目指す教育を考えているのが英才教育ともいえよう。その教育を幼い頃から受けてきた者には到底敵わないのは仕方のないことである。所謂英才教育の強みはその道のプロに指導してもらうことであり、先人たちがことの良し悪しを判断し多くの有効な手段を獲得した早道を的確に指導するのであるから英才教育は質の良い凝縮された教育である。
廉太郎は幸田幸との実力の差を見せつけられて落胆したであろうが、やはり音楽を愛することを捨て切ることはできず作曲の道に進むこととなる。偉業を成し遂げている人物の多くは努力を要し、英才教育を受けたものもまた努力を怠らない。だからこそその差が埋まらないのだろう。もし廉太郎が原始反射への働きかけを受けていたならば幸田幸を超える力を発揮できるチャンスがあったのではないだろうかと考える。
1900年21歳で実績のないまま音楽留学はできないとドイツ留学を悩みに悩んで断り、東京音楽学校が募集した中学校唱歌に応募し生まれたのが『荒城の月』であった。これまでの日本の音楽はヨナ抜きと呼ばれるファとシの音階を抜いたものであったが、この『荒城の月』には西洋音楽を組み込んだ日本では画期的ないや衝撃的な曲の登場であり、廉太郎一人で日本に於ける音楽的革命を起こした瞬間である。
1901年ドイツのベルリンへ日本人で3人目の音楽留学を果たし、数ヶ月の猛勉強ののちにライプツィヒ音楽院へ入学するも入学から5ヶ月で肺結核に罹患し、現地の病院で治療するも体力のあるうちに帰国すべきだと判断し、学業を全うすることなく1902年7月にドイツを発ち10月に横浜に着いた。最初の言葉は「やられたよ」だったそうだ。帰国後は実家に戻り療養したが23歳という若さでこの世を去った。
無念であったことや諦めの境地を読み取ることができるとされる作品が残されている。しかし彼の短い人生を語るとき、もし父親の反対を受け入れ音楽を諦めていたら長生きはしたかも知れないが、日本人なら誰しもが耳にしたあの名曲たちを心の中に刻むことはなかったであろう。こう考えると人生というものの長さではなく濃密な生き方とは何かを彼の人生から学ぶことができる。人生とはどのくらい生きたかではなく、どう生きたか、どのような生き方をしたのか、どのように心を込めて生きたかが重要ではないだろうか。
しかし夢にまで見た海外留学を途中断念し帰国した息子を両親はどう受け止めたのであろうか。きっと音楽の道に進まなければ肺結核に罹患することなくまた死ぬこともなかったであろうと息子が生きているときにはそう考えたかもしれぬ。しかし息子がこの世を去り彼の死と向き合うことができたときには、残した作品が後世に継がれていくことを確認しこれが息子の生き方だったと心の落とし所を得たのではないだろうか。そこへの着地が、5、親の望まぬ道を子供が選んだとしても受け入れることができた瞬間ではないだろうか。我が身に置き換えて考えると居た堪れぬ思いがするのであるが、そう考えるしかないと心するのもまた親の器の大きさかも知れぬ。
さて廉太郎が心を込めて音楽と真摯に向き合い生み出したものの大きさを考えると、子育ても親にとっては真摯に向き合い濃密な時間を生み出すことを心がけなければならないと教えられているように感じる。
冒頭の身内の意見である合理性と紙一重であるようでない濃密な時間について私の考えを書き足しておきたい。
決して合理的に動くことや合理性を求めることをて批判しているのではない。私自身も日々如何に時間を作り出すかを考えるとき合理的行動に出る傾向が強い。これは子育てをしている時から限られた時間内で子育て、仕事や家事、そして自分自身の学ぶ時間を生み出すためには必要なことであった。しかしたったひとつ合理性を導入してはならないものがあると気付いたのである。それが子育てだ。
全てのことにおいて合理的に結論を求める気持ちが強いと親の合理的考え方は子育てに直結することが多く、合理性第一に子供を見る癖が付いてしまい子供の育ちの中にある能力を伸ばすための遊びやゆとりを容認できず、また目の前のことと直結しないことが無意味で結果を生み出さないつまらないものとして片付けてしまいがちになる。そう捉える親御さんの意見としてよく耳にするのが「それって意味がありますか?」というような言葉で結果を早急に求める結果主義である。
がしかし実はその場で結果に結びつかないことや意味のないことと思われる事が後々大きな成果に結び付く。そのような場面に遭遇してきた私にとり、伸びる子供や逞しく生きている子供達の多くが結果主義や合理性の旗を振る親の元では育っていないということだ。よくこのことを車のハンドルに例えるのだが、遊びやゆとりを自分の中で育てている子供は如何様にも自分自身の進む道を軽々と方向転換でき、ここだと思ったときにアクセルを踏んで邁進することができるのである。
しかし合理性をあまりのも追求しすぎると子供の中に遊び心やゆとりが育たず、じっくりと物事を判断し行動するチャンスを奪うことになったり、思い描いた結果が得られないときに苛立ったり、間違っていた場合に方向転換が難しかったりする。全ての子供がそうなる訳ではないがその傾向が強く出ている場合が多い。人生とは想像力や思考力をもち物事にあたれば順調に進むことがあまりにも多い。そのことを考えると合理性は時に子供の成長の足枷になるものである。
親の仕事や家事の忙しさから生じる合理性を子育てに持ち込まず、親はその合理性を傍に置いて一線を画し、見守り待つ、気長に待つ、楽しんで待つ、想像力を働かせ待つことに自分自身の心を配るに限る。人生は一瞬一瞬の集まりであるが故、濃密な時間を過ごす子育てをしたものが優位に立つと言える。
短命ではあったが音楽を通して濃密な時間を送った瀧廉太郎の人生を知った上で彼の残した近代日本の音楽の調べを味わってはいかがであろうか。