石川遠征第2弾 大野庄用水取水口付近
前回紹介した犀川大橋の片町側の袂、石川県最大の繁華街である片町の東の端に今回紹介する物件はあります。
繁華街というのは古くから飲食店や風俗店が固まっていた場所にできることがあり、ここもそういう立地だったのでしょう。
我々の好きな古きものが案外眠っているものです。
それではレポスタート!
さて、あまり見ることはないかもしれませんが、これが昼の片町の一角。
繁華街らしく昼は静かなもんです。
この小道をしばらく進んだ先に、目的の物はあるのです。
ここからは前出の犀川大橋もよく見えます。
川の土手沿いを歩いてくることもできますね。
距離的には非常に近い。
そしてこの物件はこの犀川と関わりの深いものです。
つまり水関係。
まずはこちらを見ていただきましょうか。
大野庄用水(おおのしょうようすい)
竣工年不明
灌漑用水として金沢市を長く支えてきたいわゆる用水路です。
たかが用水路、されど用水路、金沢城築城を支えたといわれるこの水路は、その歴史の発端すら探しきれないほど永い時を生きています。
この装備が竣工時から備えていたとは思えませんが、おそらくは大正期までさかのぼると思われる歴史感じる佇まい。
いかにこの水路が重要だったかを思い知らされます。
御大典紀年
御大典とは重要な儀式のことを指しますが、「御」がついているということは天皇即位の礼のことを指すと思われます。
そしてそれはおそらく大正天皇の即位を記念し作られたと考えられます。
その理由は後述しますが、歴史的遺構として文句のないものと言えそうです。
いわゆる暗渠なんでしょうが、水路隧道と呼びたくなる佇まいですね。
さすがに水が通るための隧道を人が通る必要はないと思いますので、ひとまずこの水路の先を辿ってみましょう。
振り返ればそこには橋!
熱い展開だ!
しかし親柱が片方損失しているので、お名前がわからないのが痛いところです。
帰宅後、資料を探してみたのですが、発見には至りませんでした。
後述の情報に合わせて傳馬橋(でんまばし)と仮称しましょう。
そして残った親柱には重要な情報が載っていました。
大正10年竣工
これより前から水路はここを通っていたと考えれば先ほどの水路隧道はそれより前に作られたと考えられるのです。
大正時代の橋は大事にしましょう!
こちらが仮称、傳馬橋の名の由来。
現在はこの名はありませんが、こういう形でも名前が残るのいいものですね。
さて、こちらは取水口から水路隧道へ至る部分の反対側。
現在は解放されていますが、流入量が増えれば閉じることもあるのでしょう。
かなり頑丈にできています。
足元を轟々と流れる大野庄用水。
暗渠化されている部分は上を歩くことも可能です。
繁華街に今も残る金沢城を支えた用水。
この存在があるから金沢市は面白い。
この用水は今後も追い続けていきたいです。
以上、大野庄用水取水口付近編