「太陽王ルイ14世」②ヴェルサイユ宮殿
「豪華絢爛」という言葉の代名詞といっていいヴェルサイユ宮殿。日本では『ヴェルサイユのばら』(池田理代子)のイメージからルイ16世の妃だったマリー・アントワネットと関連付けられることが多いが、もちろんつくったのはルイ14世。そしてこのヴェルサイユ宮殿のシンボルと言えば「鏡の間」。 庭園側に17枚のアーチ型の窓があり、対面する壁面に、合計375枚の鏡で装飾された、窓と同型のアーチが連なる。床から12mの高さにある天井はシャルル・ルブランの工房により、ルイ14世の功績を30の構図に表した1000㎡近くにわたる絵画で装飾されている。
フランスの顔と言ってもいいこの場所は、世界史上の重大事件の舞台になってきた。すぐに思い浮かぶのは、第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約。敗北したドイツは、屈辱的な条件の条約を「鏡の間」で調印させられた。この条約によって,ドイツは海外植民地をすべて失い,アルザス・ロレーヌをフランスに返還。他の諸国にも領土を割譲,戦前の面積・人口の10%以上を失った。またきびしい軍備制限と多額の賠償金(総額1320億金マルク[約200兆円]。ただし、1932年のローザンヌ会議で30億マルクまで引き下げられたが、それまでに支払われた額はドイツ側の算定では530億金マルクとされている)を課せられて,ドイツ国民に大きな不満を呼び起こした。
なぜ「鏡の間」だったのか?話は1871年1月18日にさかのぼる。1870年、プロイセンのビスマルクがフランスのナポレオン3世を挑発してフランスとプロイセンの間で戦争が勃発。普仏戦争である。軍備にまさるプロシアは連戦連勝。1870年9月2日ナポレオン3世はスダン (セダン) で降伏し、第二帝政は崩壊。新政府は,戦争を続行したが,1871年1月 28日ついにパリを開城。そして講和条約が結ばれ、フランスはドイツに莫大な賠償金(50億フラン)を支払い,アルザス=ロレーヌの大部分を割譲することになった。 この戦争は、統一国家ドイツが誕生したという意味でも世界史上重大な意義を有する。ドイツ統一を目論むビスマルクは、プロイセン中心のドイツ統一に反対するカトリックの強いバイエルンなど、南西ドイツ4領邦を新生ドイツに編入するため、宗教を超えた民族主義(ナショナリズム)の利用を考えた。そして、普仏戦争にはプロイセン以外の他のドイツ諸国(バイエルンなど)も加わり、全ドイツとフランスの戦争の様相となったことで、ドイツ統一を一気に加速させた。そして戦争がまだ続いていた1871年1月18日ヴィルヘルム1世が初代ドイツ皇帝となり、ドイツ帝国(ドイツ国)の成立が宣言された。統一国家ドイツの誕生である。
では、ドイツ皇帝の戴冠式、ドイツ帝国成立の宣言はどこで行われたのか?ドイツ国内ではない。なんとヴェルサイユ宮殿の鏡の間である。多くのフランス人にとってそれはどれほどの屈辱だったことか。ドイツへの天文学的な賠償金を定めたヴェルサイユ条約の鏡の間での調印につながるのだ。まさに報復と言っていい。今度はドイツ国民が屈辱を味わわされたのだ。それは新たな火種となる。その想いはやがてナチスの台頭をうみ、第二次世界大戦へとつながっていくのだ。
(「ヴェルサイユ宮殿 鏡の間」)
(「ヴェルサイユ宮殿 鏡の間」)普仏戦争中、プロイセン軍に占領され野戦病院として使われた
(「ヴェルサイユ宮殿 鏡の間」)ウィルヘルム1世戴冠式
(「ヴェルサイユ宮殿 鏡の間」)ヴェルサイユ条約調印式
(捕虜となったナポレオン3世とビスマルクの会談 セダン)
(プロイセン軍によるパリ砲撃)普仏戦争