Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

鈴木みのるデビュー30周年…プロレスへの回帰を決意させたライガー戦

2018.06.27 05:17

 2002年11月30日、パンクラス横浜文化体育館大会で鈴木みのるが新日本プロレスの獣神サンダー・ライガーと対戦した。

  当時の新日本プロレスは1月に武藤敬司が小島聡、ケンドー・カシンと共に新日本を退団して全日本プロレスへ移籍、現場監督だった長州力も武藤退団の責任を問われ失脚、長州と共に90年代の新日本を支えてきた仕掛け人の永島勝司氏も新日本を去ったことで、蝶野正洋とフロントの上井文彦氏が現場を取り仕切り、オーナーである猪木が格闘技路線を推進し始めたこともあって、新日本とパンクラスの間で交流が開始していた。

  新日本プロレスの30周年を記念した5月2日の東京ドーム大会にはOB達も来賓に招かれ、船木誠勝や鈴木みのるも新日本OBとして来場、佐々木健介と再会した鈴木は握手をかわして対戦を迫った、二人は若手時代に凌ぎを削り「いつか大きな会場で闘おう」と約束しあった仲だった。しかし鈴木は第2次UWFへと移籍してしまい、二人の約束は宙に浮いたままで14年が経過してしまっていた。

  鈴木は1988年に新日本でデビュー、わずか1年足らずでアントニオ猪木とも対戦して、猪木相手に顔面を張る度胸ぶりを猪木が高く評価して付き人に据えたが、兄貴分の船木に追随する形で第二次UWFに移籍、1991年に第二次UWFは分裂して、船木と共に藤原喜明のプロフェッショナルレスリング藤原組へ移籍するも、1993年1月に船木と共に藤原組を退団してパンクラスを旗揚げ、1995年5月にケン・シャムロックを破って第2代キング・オブ・パンクラシストとなるとなったが、9月にバス・ルッテンに敗れ王座から転落、そして首の頚椎からくる椎間板ヘルニアを患い、一時は引退勧告を受けたが、本人は反発して現役を続行、長期欠場から復帰するも、首だけでなく左足や股関節も負傷するなど故障が続き、後輩に追い越されるどころか試合からも外されるようになった。鈴木が健介との対戦を考えたのは、引退という文字が頭によぎったからかもしれない。

  健介と鈴木の再会は注目を浴び、マスコミも対戦へ向けて煽りまくった。鈴木vs健介は11月30日パンクラスの横浜文体大会でパンクラスルールでの対戦が正式決定、健介はヒクソン・グレイシー戦の対戦候補の一人としてアメリカでMMAの特訓を積み、アメリカでゲージでの試合も経験してことから、パンクラスルールでの試合もOKだった。ところが対戦が実現するまであと1ヶ月となったところで、健介が負傷を右足首をを負傷したことを理由に辞退を申し入れ、当時新日本のマッチメーカーだった上井氏は獣神サンダー・ライガーを伴ってパンクラスの事務所を訪れ謝罪、鈴木も健介の突然の辞退に戸惑うも、ライガーが代役に名乗りを挙げたことで決定する。実はライガーは事前に鈴木と電話で話し合い

(ライガー)『おい、健介がお前とやらないって聞いたぞ?なんでアイツやんねえんだよ!』

(鈴木)『何回聞いてもできないとしか言わないんですよ、なんだアイツ、知らないっスよ』

(ライガー)『そこまでいったのにどんな理由があるにしろ出れないってなったら、おまえは健介が逃げたと思うだろ?』

(鈴木)『思います』

(ライガー)『ってことは新日本がおまえから逃げたってことになるんだよ。俺は絶対それを許さない。俺がやる。新日本は逃げねえからな。マスクを脱いででもなんでもいいよ、やるよ』

と"健介の代わりはオレがやる"と鈴木に告げていたのだ。ライガーは異種格闘技戦の経験はあり、また合間を見てMMAのトレーニングをしていた。畑違いのパンクラスルールは初体験だったが、鈴木はライガーの男気に感謝していたという。

 ところが健介が会見を開き「鈴木とは試合がしたい、だからこの1戦のために辞表を提出します」と"鈴木みのる戦を巡る交渉の過程で新日本への不信感を抱いたことを理由にして退団を表明する事態が発生してしまう。5月には健介の師匠である長州が猪木を批判した上で新日本を去り、永島氏と共に新団体設立へと動いていたことから、健介が長州&永島氏によって引き抜かれたことは明白だった。健介の行動にライガーが怒り「鈴木とやりたかったんだったら、11月30日に会場に来て鈴木と来てやれよ、健介がやるんだったらオレは身を引くよ」と発言すると、健介に会い納得するまで話し合った。ライガーは健介の事情を察しつつも「鈴木と対戦したい」という意思を確認し、パンクラス側にライガーvs鈴木戦を辞退して、代わりに鈴木vs健介戦実現に動こうとしていた。だが既に遅くパンクラスはライガーが出場することを前提にポスターなど印刷物も発注してしまっていたのと、鈴木自身がライガー戦を想定して調整してしまっていることから、ライガーの申し出を断ざる得ず、鈴木vs健介は断念となった。

 ライガーはシリーズは休まず、試合前には中西学や選手達とじっくり調整して万全の状態で鈴木戦に挑んだ。ライガーが参戦するに当たってはパンクラス側も他の選手らからマスクマンをパンクラスのリングに猛反発する声も出ており、鈴木が自分の意思を押し通して反発を抑えたが、この頃のパンクラスはプロレス団体から脱し、格闘技団体へと変貌を遂げようとしていた。リングに「怒りの獣神」が鳴り響く中でライガーが登場、ライガーは特例としてマスク着用は許可されるが、対ヘビー級用のマスクを着用、派手なマントではまくTシャツを一枚着ただけで、スパッツ一枚とまさに格闘技仕様で鈴木に挑み、またTV解説には船木、観客席では健介が試合を観戦していた。

 試合は開始30秒からライガーが狙っていた浴びせ蹴りを狙うが、鈴木がかわすと覆いかぶさりマウントを奪ってパンチを落とすも、ライガーは殴られながらも笑い、鈴木も殴りながらも笑顔を浮かべた、このときの鈴木は「今日は本当に楽しくなっちゃった。本気で殴り合えて最高」だったという。最後は鈴木がバックマウントからチョークスリーパーを奪い、ライガーがタップで勝利となったが、試合後の二人は抱擁をかわして健闘を称えあい、鈴木もマイクで「ライガーさん、(大会前の会見でも話していた『刀』が)ちょっとだけ錆びついてましたね。でも、あんた最高だよ!」と叫ぶとライガーも「もう1回やろう。でもすぐにというわけにはいかん。2年くらい余裕をくれ。次はブチのめす」と再戦を要求、そして健介もリングサイドに現れ、鈴木も「いいかげんやるのかやらねえのか、はっきりしろよ」と挑発。リングインした佐々木は「燃えてきた。次は俺の番。あのときの青春を俺とお前で取り戻そう」とアピールし、尾崎社長にパンクラスのリングでの対戦を直訴も、健介はこの日で新日本を正式退団しており、パンクラスのリングでの対戦は事実上不可能となってしまった。

 大会後に尾崎社長は専属リングドクターから「鈴木はパンクラスルールでの試合はこれ以上無理」と忠告を受けたことで、鈴木をプロレスに回帰させることを決意、安田拡了氏を通じて上井氏に話を持ち込み、上井氏が承諾したことで新日本への参戦を決め、尾崎社長は鈴木にパンクラスに属したままでプロレスへの回帰を薦める。当初は鈴木は拒否するも将来的なことを考えた上でプロレスへの回帰を決意、佐藤光留をパートナーにしてプロレスの練習を開始し、パンクラスもプロレス部門としてパンクラスMISSIONを立ち上げた。2003年6月13日武道館で鈴木はプロレスラーとして新日本のリングに上がり、元リングスで新日本所属だった成瀬昌由と対戦、鈴木は逆落としからのスリーパーで勝利を収め、プロレスラー復帰第一戦を勝利で飾った。

 そして念願だった佐々木健介戦が実現したのは11・13大阪ドーム事変が起きた2004年11月13日の新日本大阪ドーム大会で、この頃の健介は長州の下を去り、フリーのレスラーとして新日本に参戦しておりIWGPヘビー級王者となっていた。この試合も猪木事務所から干渉を受けるのではと懸念されたが無事行われ、鈴木は健介のラリアットのラリアットを真正面から喰らい敗れるも、念願だったシングル戦が実現しただけでも二人は満足だった。

 その後鈴木は全日本、NOAHだけでなく他団体にも参戦、現在は鈴木軍を率いて新日本を席巻することで、プロレス界を代表するレスラーへと昇り詰め、今年でデビュー30周年を迎えることになった。

 最後に鈴木みのる選手、デビュー30周年、おめでとうございます!