ベイダーがUWFインターに電撃移籍!高田延彦と真冬の神宮決戦!
1993年2月14日、UWFインターナショナル日本武道館大会に取締役の鈴木健氏が"ある勇気"あるレスラーからの手紙を読み上げた。そしてその手紙の主がWCW世界ヘビー級王者であるビックバン・ベイダーであることを明かすと、館内は大歓声となった。
1992年、UWFインターナショナルは絶対エースである高田延彦が北尾光司をハイキック一発でKOしたことが高く評価され『東京スポーツ制定プロレス大賞MVP』を受賞するなど絶頂期を迎えていたが、Uインターの仕掛け人である宮戸優光は更なる高みを目指すために、WWFやWCWで活躍しているトップ選手をUインターに参戦させることで、Uインターのスタイルを世界に広め、プロレス界に刺激を与えたいと考えていた。ところがその矢先にUインターで外国人ブッカーである笹崎伸司がベイダーと新日本の間で関係がこじれていることを聞きつけて宮戸に報告、宮戸もベイダーの身辺調査を笹崎に依頼するが、事実であることが判明する。
1988年12月に新日本プロレスに初来日を果たしたベイダーは"両国暴動事件"もあって、トップ外国人選手として新日本に定着、3度に渡ってIWGPヘビー級王座を奪取するなど、外国人選手でありながら新日本の頂点に君臨した。1991年から新日本と提携していたWCWに定着するとWCW世界ヘビー級王座を奪取するなど、WCWでもトップ選手として活躍するが、それと共に新日本よりWCWのスケジュールを優先し始めたことで、新日本と摩擦が生じ始めていた。ベイダーはこの時点でまだWCW世界ヘビー級王者でもあったが、元IWGPヘビー級王者だった実績を買った宮戸は、高田が巻いているルー・テーズベルトである世界ヘビー級を高めるだけでなく、ベルトの提唱者であるテーズが考える世界タイトルの統一に相応しい選手と考え、早速獲得へ向けてベイダーとコンタクトを取り、ベイダー自身も新日本を離れる意向であることを宮戸に明かした。
宮戸は同じ取締役だった安生洋二と共に渡米し、合流した笹崎と共にWCW本部でWCW会長の立会いでベイダーと会談、スケジュールを確認し3試合分の契約を締結したが、WCWは提携関係を結んでいた新日本とのトラブルを避けるために、あくまでWCWのブッキングではなくUインターとベイダー個人の契約としてUインター参戦を黙認した。WCWは新日本とベイダーを共有していたが、新日本とベイダーの間で起きているトラブルは、あくまで新日本の問題でWCWは関係ないとしたかったのだ。
ベイダーは5月6日、Uインター武道館大会に参戦し、中野龍雄と対戦することになったが、大会当日になってベイダーを引き抜かれた新日本側が顧問弁護士を伴って来場し、武道館大会出場禁止とリングコスチュームとリングネームの使用を禁止と書かれた仮処分申請書をベイダーに手渡す非常手段に打って出る。実はベイダーと新日本と3年契約を結んでいたが、ベイダーは契約を消化しておらず、またビックバン・ベイダーやキャラクターなどの権利関係も新日本が商標登録をしていたのだ。この頃は新日本とUインターは、高田がNWA世界ヘビー級王者となった蝶野正洋と対戦表明したが、交渉段階でこじれたことでUインター側が新日本を批判したことをきっかけに関係が悪化しており、またWCWを優先するベイダーに対して背後にUインターが絡んでいるとして新日本側は勘ぐっていたという。
なぜベイダーが、新日本との契約を消化しきれないままUインターへ移籍しようとしていたのか、ベイダーはレオン・ホワイト時代にAWAでスタン・ハンセンやブルーザー・ブロディと二人からプロレスラーとしての意識を学び、プロモーターとトラブルを起こすブロディから大きな影響を受けた。 93年代の新日本はvsWCW中心路線から、闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)、そして他団体との対抗戦路線へ軸を置き始め、スコット・ノートンやトニー・ホームをトップ外国人へ押し上げようとしており、1992年5月17日大阪城ホールで行われていたベイダーvsホーム戦でも、ベイダーが圧倒しながらもホームに逆転負けを喫していたことから、三銃士やノートンらの踏み台として扱われることに納得しがたいものがあり、このまま新日本に留まっても自身の商品価値は落とされる、自分の価値を評価してくれる団体に移ったほうが良いと考え、新日本と距離を取りWCWのスケジュールを優先、また日本での新しい活躍の場を求めたところところでUインターが引っかかってきたに過ぎなかったのかしれない。
新日本からの非常手段に対し、Uインター側もビックバン・ベイダーのリングネームを使わず、リングネームをスーパーベイダーにすることで、出場許可が下りて予定通りに中野戦が行われ、ベイダーは正面から挑んでくる中野を粉砕する。その後ベイダーは8・13武道館で山崎一夫、10・4大阪で佐野直喜を連破、遂にエースである高田に王手をかけた。
高田vsベイダーの決戦の場は12月5日の神宮球場となった。Uインター側は東京ドームを考えていたが、希望の日にドームは開いておらず、またどうしてもドームクラスの大会場という意向も強かったため、神宮球場になった。しかし会場のことより最も怖れたのはベイダーがWCW世界ヘビー級王者として来日することだった、たとえ高田の保持する世界ヘビー級王座とのダブルタイトル戦にならなくても、WCW王者を破ったとなれば高田の存在が世界中に伝わり、テーズベルトである世界ヘビー級王座はWCW王座より上と権威が上がる。またUインターの名前も世界中に広がると考えていたからだった。ベイダーは宮戸の期待通りにWCW王者として来日、高田の世界王座に挑戦した。
試合はベイダーが巨体を生かしてベイダーハンマーを乱打、高田から4度ダウンを奪い、エスケープ4回まで追い詰める。通常のUインタールールならKO負けだが、特別ルールにより規定はなく、高田はルールに助けられる。高田はローキックでベイダーの足を切り崩しにかかると、ベイダーの右腕腕十字で捕獲、ベイダーはギブアップとなり、高田はWCW王者より最強であることを示すことが出来た。ベイダー戦と神宮大会の成功はUインターにとっても一番の頂点だった。
高田vsベイダーの2度目の対戦が行われたのは94年8月18日武道館「プロレスリング・ワールド・プロレスリング・トーナメント」の決勝戦で、ベイダーはUインターの常連として定着、日本武道館など大会場を主にしていたUインターにとってトップ外国人選手として欠かせない存在となっていたが、宮戸にとってもベイダーは選手として大きな信頼を置いていたのかもしれない。決勝戦には高田は保持する世界ヘビー級王座もかけたが、ベイダーのベイダーハンマーのラッシュを浴びた高田はKO負けを喫し、ベイダーがリベンジを果たして王座を奪取するが、トーナメント開催にあたり、各団体のエース格の選手を招くために招待状を送り、賞金1億円を提示したことで各団体から反発を招き、また唯一参戦に前向きだった前田日明のリングスと交渉過程で泥仕合に発展してしまったことで、トーナメントの存在は薄れ、ベイダーのリベンジも大きなインパクトを与えるまでには至らなかった。
3度目の対戦は95年4月20日の名古屋レインボーホールで、ベイダーに流出したままである世界王座に高田が挑戦したが、Uインターは前年度の12月7日に安生がヒクソン・グレイシーの道場破りを敢行して惨敗を喫した"ヒクソンショック"の影響や、宮戸と経理を担当していた鈴木健氏による対立が生じ、団体が大きく傾き始めていた。Uインターは宮戸の方針で特定のスポンサーは付かせず、自己資金で運営していた団体だったが、”ヒクソンショック”の前後から経営が苦しい状況に立たされており、常連として参戦していたベイダーの高額なギャラもUインターの財政を圧迫させた一因となっていた。だが経営に理解のない宮戸は鈴木氏が不正を働いているとして疑い、鈴木氏の説明にも聞く耳を持とうともしなかった。
3度目の対戦はUインターでは珍しい場外戦も繰り広げられたが、最後は高田がハイキックでKO勝利を収め王座奪還に成功、しかし同日にはヒクソンが参戦する「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」が開催され、前田率いるリングスから山本宜久が参戦してヒクソンと対戦して善戦したことでリングスの株が上がり、Uインターは安生どころか、誰も刺客を差し向けなかったということで株が下がるどころか批判の的にされ、高田の王座奪還もインパクトの薄いものになった。元々Uインター名古屋大会は、当初4月上旬に開催する予定だったが、この年に起きた阪神・淡路大震災の影響で日程をずらさず得ず、4月20日しか会場は空いていなかったのだ。
ベイダーは名古屋大会をもってUインターを離れた。理由はUインターがベイダーにギャラを支払う余裕もなくなったことで切らざる得なかったと見て良いだろう。ベイダーは最後のインタビューとなったGスピリッツVol.44では「UWFのスタイルは特に異質で難しかった」と答えていたが、Uインターのことは多くは語らなかった。ベイダーにしてみれば"ヒクソンショック”やUインターの内紛は関係はなく、契約が打ち切りとなればそれまでの関係で、数多く参戦した団体の中の一つに過ぎなかったのかもしれない。
(参考資料 エンターブレイン社、宮戸優光著 UWF最強の真実)