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"些細”なことから始まった新日本プロレスvs誠心会館の抗争…齋藤彰俊のプロレスラー人生はここから始まった!

2018.08.22 06:32

 これは、ほんの"些細"なことから始まった。

1991年12月8日、誠心会館自主興行が開催されていた後楽園ホール大会の控室、当時新日本プロレスにレギュラー参戦していた青柳政司と、新日本プロレスの小林邦昭がタッグを組むことになっていた。そこで青柳の付き人が控室のドアを"バーン"と強めに閉めてしまった。小林は「オイ、もっとていねいに閉めろ」と注意した。だが小林が何言ったのか聞き取れなかった付き人は「は?なんですか?」と返答すると、小林は口答えしたと判断したのか、その付き人を殴り、付き人は口の中を切って13針を縫ってしまった。小林の行為を知った誠心会館の齋藤彰俊はプロレスとは何の関係のない"素人"を殴った小林に激怒、青柳に「弟子が殴られて黙っているんですか!」と抗議するが、青柳は新日本の契約選手だったこともあって「我慢してくれ」となだめるも、彰俊だけでなく、他の道場生もこれで納得するわけがなかった。

 齋藤彰俊は格闘家になろうとして誠心会館に入門、長州力のファンだったもあってプロレスラー志望でもあった。1990年12月に剛竜馬のパイオニア戦志でプロレスデビューを果たし、その後W☆INGの旗揚げに参加するも分裂騒動に巻き込まれてしまい、分裂した一派はWMAという団体を準備し、彰俊もWMA側についたが、WMAは旗揚げすることもなく崩壊、彰俊自身も上がるリングを失って宙ぶらりんの状態になっていた。

 16日の大阪府立体育会館で事件が起きた。小林が会場入りしようとすると、誠心会館の門下生が小林を襲撃し袋叩きにしたのだ。門下生の行動に青柳も困惑していたが、実は彰俊は仲介者を通じて現場監督の長州力と会い、小林の行為に関して抗議するため直談判していた。長州は小林の事件に関してはおそらく渉外を務めていた永島勝司氏から報告は受けていたはず、長州は"これは面白いものが生まれるかもしれない”と感じたのか、彰俊らに「ケンカしたければやれよ」と返答した。つまり誠心会館の襲撃は長州の承諾を得た上での行動で、おそらくだが長州も小林や青柳には敢えて彰俊らが襲撃をかけてくることを言わなかったのかもしれない。

 誠心会館勢から襲撃を受けた小林は病院に搬送され口腔挫傷、頭部外傷、外傷性頭部症候群の重傷を負い大阪大会を急遽欠場、20日に新日本事務所で小林は首にコルセットを巻いた状態で会見を開き、道場生を殴ったことに関して謝罪はするが、闇討ちを仕掛けてきた誠心会館勢を非難し受けて立つ姿勢を見せる。青柳はこの事態を抑えるために23日に開催された誠心会館自主興行後楽園大会で、館長として彰俊を始めとす弟子たちをリングに入れ、弟子たち叩きのめして制裁、「オマエたち、目を覚ませ!」と新日本との全面戦争を辞めるように訴えるが、彰俊らも「館長こそ目を覚ましてください!新日本と決着をつけなければ、誠心会館は潰れます!」と譲らない。青柳は涙を流しながら「もう、わかった!俺を敵にまわしていいのなら新日本とやれ!」と弟子たちの覚悟に折れ、新日本との抗争を許し、92年1月4日の東京ドーム大会の第2試合後に彰俊を始めとする誠心会館勢が堂々と登場、挑戦状を読み上げることで新日本vs誠心会館の抗争に火蓋が切られた。

 新日本は誠心会館への刺客として小林、越中詩郎、小原道由を差し向けた、小林は事件の当事者でもあるが、越中は高田延彦のキックを真正面から受けたことで受けの強さがあり、小原はケンカ強さを買っての起用で、特に小林と越中はジュニアの主役を獣神サンダー・ライガーに明け渡し、ヘビー級へ転向してから中堅として燻っていたことから、長州は小林だけでなく越中に、もう一度陽の目を与えたいと考えていたのかもしれない。

 第1Rは1月30日の大田区体育館大会のメイン終了後の番外戦で行われ、小林が彰俊を迎え撃ったが、彰俊が正拳突きや膝蹴りのラッシュを小林に浴びせて流血に追い込めば、小林もアキレス腱固め、腕十字、マウントを奪って膝をグリグリ押し付けるなどして反撃、そしてリング下ではセコンド同士が乱闘を初め、小林のセコンドに着いていた蝶野正洋が誠心会館側のセコンドである田尻茂一にケンカキックを浴びせ流血、同じく新日本側の金本浩二も誠心会館側の襲い掛かり、相手を骨折させる。試合は小林の流血がひどいためレフェリーストップで彰俊が勝利を収めたが、セコンド同士の乱闘で誠心会館側は負傷者が続出したことで「油断したら死ぬぞ」と誠心会館側はプレッシャーをかけられる。長州は新日本vs誠心会館の継続を宣言、新日本側は小林が負傷したため、次なる刺客として小原を差し向ける。

 第2Rの小原vs彰俊は2月8日の札幌で行われたが、大ブーイングの中入場した彰俊は小原のセコンドに着いた小林に「小林、どうした!」とマイクでアピールも、後入場の小原がリングインするなり、彰俊に襲い掛かりコーナーに押し込んで掌打、頭突きを浴びせるも、彰俊は正拳、膝蹴りで応戦、小原も柔道の引き出しを出して腕十字やパワースラム、アキレス腱固め、胴絞めスリーパーで反撃、サイドポジションから肘を落とすが、彰俊はハイキック、回し蹴りで反撃すると、再びセコンド同士が乱闘を始め、二人も巻き込まれると小原は誠心会館勢に襲撃を受けて流血、小原も構わず彰俊の上に乗って頭突きの連打を浴びせるが、彰俊は容赦なく流血した小原の額に正拳を浴びせ、回し蹴りが炸裂すると、小原はダウン、そのままKO負けとなって担架送りになり、試合後もセコンド同士が乱闘となってしまう。

 第3Rは2月10日の名古屋レインボーホールで行われ、今回はトルネード形式のタッグマッチということで小林は越中、彰俊は田尻をパートナーに起用も、この日がプロレスデビューだった田尻を小林と越中が狙い打ちにされ、越中が腕十字、バックドロップからスリーパーで田尻を絞め落としTKOで新日本が一矢報い、試合後も小林と越中が彰俊に襲い掛かったため、遂に抗争では新日本側に立っていた青柳が彰俊に加勢、弟子たちに合流して新日本vs誠心会館の抗争はますます激化していく。

 第4Rは2月12日大阪府立臨海スポーツセンターで越中が彰俊を迎え撃ったが、打たれ強さで定評のある越中を回し蹴りからの膝蹴りでKO勝利する。第5Rの3月9日の京都大会では小林と越中が組んで青柳、彰俊の師弟コンビと対戦したが、小林の顔面蹴りが彰俊の目に入り、レフェリーがダメージが大きいとして彰俊のTKO負けを宣告、だが誠心会館勢が納得しないため、来原圭吾を代役にして延長戦が行われたが、この日がプロレスデビューだった来原を小林が攻め立て胴絞めスリーパーで絞め落とし、新日本が勝利を収める。

 そして誠心会館は看板をかけて1vs1による完全決着戦を要求、4月30日の両国国技館で小林vs彰俊、5月1日の千葉ポートアリーナ大会で越中vs青柳が行われたが、小林vs彰俊は両者流血戦の末、小林がチキンウイングアームロックで彰俊からギブアップを奪って、誠心会館の魂である看板を奪取、5・1千葉では青柳も看板奪還に向けて攻め立てたが、越中の急角度のバックドロップからドラゴンスープレックスでKO負けを喫し看板奪還はならずも、長州は控室で彰俊に「オマエ、素晴らしい格闘家だな、お前達にこっちが教えられることが多かった」と看板を返却、長州も彰俊を見て"素晴らしい素材だ”と高く評価しており、新日本に殺気ある戦いを呼び戻してくれたことでの感謝の意を込めての返却であり、彰俊も自身がファンだった長州自ら認めてくれたことで感動して涙を流して返却に応じ、これで新日本vs誠心会館の抗争は幕が閉じたかと思われた。

 この決着の仕方に青柳が納得いかず彰俊に「看板を返して来い!」と激怒、青柳はあくまで勝って看板を奪還することにこだわり再戦を要求、彰俊も仕方なく看板を新日本に返却する。だが新日本も決着がついているとして再戦を拒み、青柳も長州の側近だった馳浩を通じて再戦を頼んだが応じることはなかった。そこで誠心会館は6月9日の名古屋国際会議場大会で越中と小林に対して再戦をして欲しいとメッセージを送った。新日本としてはこの再戦は猛反対だったが、越中と小林が独断で名古屋に乗り込み、小林vs青柳が行われ、試合は両者レフェリーストップとなるも、小林は看板を返却、青柳も涙を流して応じて、これで決着かと思われていた。ところが新日本の選手会が小林だけでなく選手会長である越中が独断で行動したことを蝶野が糾弾したことで、越中が選手会長を辞任して選手会を脱退、小林も同調するが、元々蝶野と越中は折り合いが悪かったことも越中が選手会を脱退した原因の一つだった。ベテランの木村健悟も選手会と越中の仲介役になろうとしたが、新しく選手会長に就任した蝶野から越中側と見られてしまい、怒った木村も選手会を脱退して越中に合流、そこで青柳や彰俊が加わり、新ユニット『反選手会同盟』を結成、反体制として新日本本隊と抗争を繰り広げた。

 後年青柳は「齋藤のプロレスの原点は新日本との対抗戦ですよ」と答えていたとおり、彰俊はこの新日本vs誠心会館の抗争をきっかけにプロレスのメジャーシーンに乗った。ほんの些細なことからだったが、些細なことがきっかけにプロレスラーとしてデビューすることが出来た。新日本との抗争がなかったら現在の彰俊はなかったのかもしれない。

 その後『反選手会同盟』は勢力を拡大して『平成維震軍』となるも、蝶野が同じ反体制にまわって『狼群団』『nWoジャパン』を率いたことで新日本に一大ムーブメントを起こしたことで、『平成維震軍』の存在は影が薄くなり、彰俊は解散目前の1998年に新日本との契約を更新せず退団、名古屋に戻ってスナックを経営するも、彰俊の素質を惜しんだ青柳が旗揚げしたばかりのNOAHに参戦するために彰俊を誘い二人は参戦、そこで秋山準と出会いパートナーに抜擢され、GHCタッグ王座を奪取、そのままNOAHの所属となり、2004年10月24日には大阪府立体育会館大会で小橋建太の保持するGHCヘビー級王座に挑戦、王座奪取はならなかったが、シングルプレーヤーとしてもトップの一角に食い込んだ。三沢光晴の不慮の事故も経験するも、現在は丸藤正道とのタッグでGHCタッグ王座を奪取、現在でもベテランとしてNOAHのリングに上がり続けいる。

(参考資料 日本プロレス事件史Vol.11 新日本プロレスワールド 2・8の札幌の彰俊vs小原、3・9京都の越中&小林vs青柳&彰俊、4・30両国の小林vs彰俊は新日本プロレスワールドで視聴できます)