Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

工藤咲良HP(旧) 活動情報&ライアー編曲譜

音楽療法がいかに危険か

2018.09.04 22:03

はじめに

 治療、療法、ヒーリング、カウンセリング… 現代医学であれ代替医療であれ、これらの行為はどれも、危険をはらんでいます。なぜなら、それを受ける人間の体に、心に、人生にメスを入れる行為だからです。ここに綴る私の言葉は、多くの批判を浴びるかも知れません。それを承知で、この記事を書いています。なぜ、私がもう音楽療法をしないのか、なぜ、ライアーのための編曲や、ピアノ曲を作曲を始めたのか、その理由を、お伝えしておきたいからです。

何を隠そう、かつて私自身、音楽療法士としていくつもの過ちを犯しました。誰から指摘されたわけでもないことを、「過ち」と判断するのは少々行き過ぎているかも知れません。それでも、私はここに、その過失を謝罪したいと思います。一方で、音楽療法士養成コース受講生の皆さんへのライアーレッスンを通して私が確信したこと、「編曲や作曲の工夫一つで、誰でも、美しい演奏が出来るようになる!」という事実を、豊かな実りにつなげたいと思っています。


治療を受ける側の立場の弱さ 

1.現代医学の場合

 ある病院で医療事故が起こり、それが発覚し、病院側が事実を認めたとします。事故を起こした医師は解雇され、医師免許没収その他の措置を受け、病院は被害者に対して慰謝料を払う。それでも、被害を受けた患者や遺族は、一生、癒えることのない傷を負ったまま、生きることになります。医療事故は、病院側にも大きな打撃を与えます。ですから、事故の再発を防ぐために、様々な対策がとられます。一軒の病院で起きた医療ミスから、多くの病院が学びます。しかし、これはあくまでも、隠すことの出来ない大きな事故の場合です。医療ミスかどうかの判断が難しく、証明もしにくい小さな治療の失敗は、いったいどれだけ起きていることでしょう。このように、現代医学においても、患者は弱い立場にいます。治療を受けるということは、救いであると同時に、危険に身を晒すことでもあるのです。


2.代替医療及び心の病気の場合

 代替医療においては、例えばある薬の効果と副作用をとってみても、統計を取ることがより難しくなります。治療者の経験と力量が、よりモノを言うようになります。良い治療者に出会い、現代医学が治せなかった病気が治ることもあります。しかし、症状が悪化した場合、それが治療のせいであっても、それを証明することは、現代医学よりもさらに、難しいでしょう。多くの人々が意識していませんが、あなたが代替医療を選択する時、それは、保険が利く「ふつうの」治療を受けるよりもリスクの高い道を、自己責任において、選択しているのです。

 ここまでは体の病気の場合の話でした。心の病気、つまり精神科や心療内科の領域は、例え医療事故が起きても、それを医療ミスであると証明することは、ほぼ不可能です。それでもまだ、薬物療法は処方された薬が記録されます。しかし、もし、ある患者がカウンセラーから言われた一言に傷つき、自殺をしたとしても、その因果関係は誰にも証明できません。


治療者にとっての落とし穴

 いかがでしょう。こうして考えてみると、カウンセリング、ヒーリング、音楽療法、芸術療法… こうした〇〇療法は数えきれないほどありますが、どれをとってみても、治療者がいかに有利な立場にあり、患者(クライアント)がいかに弱い立場にあるか、お分かりになると思います。治療者の腕に、すべてがかかっているのです。患者を力づけるか、傷つけるか。生へと導くか、死へと導くか。たいていの患者は、どんな治療であっても、「どうもありがとうございました」と礼儀正しく治療者に頭を下げるでしょう。どんなにひどい治療によって心が傷ついても、客観的に考えて、治療者側に問題があると判断することは、心身が弱っている人にとっては、とても無理なことです。

 心の病気は、症状の悪化が治療によるものであると証明できない。患者に頼られ、感謝されると、例えそれが礼儀やお世辞であっても、治療者は気付きにくい。その結果、治療者は徐々に鈍感になり、怠惰になり、プライドだけが高くなってゆく危険性をはらんでいるのです。


音楽療法を学んだ者としての責任

 ここからは音楽療法に焦点を絞ってゆきたいと思います。アントロポゾフィー音楽療法では、療法士が音楽を使ってクライアントを治療するのではなく、音楽そのものが我々人間の心身に働きかけ、整え、治療する力を持っていると認識します。療法士は、クライアントが音楽と良い関係を結び、音楽に浸り、戯れることを通して、生命が力と喜びを取り戻す過程を助ける役目を担います。

 正直、私は、音楽療法を皆に知ってほしいとか、広めたいとか、療法士を育成したいとはあまり思っていません。それよりも先に、やらなくてはならないことがあると思っています。「音楽は良いものだ」と、漠然と信じている人たちが、病院、老人ホーム、精神病院、障がいを持った子供たちや大人たちのための施設で「音楽療法」と称して演奏活動を行っている現状に、まず目を向けたいのです。そのような施設で生活している人々の中には、意思表示が難しい人たちがきっといるはずです。「音楽は聴きたくない。嫌だ。」という意志表示が……

慰問、レクリエーション、音楽療法、コンサート、どんな形であっても、心の傷つきやすい人たちに向けて演奏する音楽は、普通のコンサートよりもずっと、洗練された質の高いものでなくてはなりません。こう書くと、プロの演奏家にしか出来ない難しいことのように思われるかも知れませんが、決してそんなことはありません。演奏する人が、音楽を心から愛し、音楽の喜びを知っていて、その喜びを演奏によって表現できた時、洗練された演奏は生まれます。より美しい演奏を探求し、自らいろいろな工夫をし、演奏技術を磨くこと。より良い耳で、自分の演奏が聴けるようになるために、質の高いプロの演奏にたくさん触れること。そして、良い作曲、良い編曲が成された曲を演奏することです。

この部分で、私は皆さんのお役に立てたら嬉しいと思っています。皆さんがご自身が楽しく演奏できて、音楽療法の場でも使えるような、易しく美しい曲をたくさん作曲したいと思っています。


おわりに

 私は、不思議な運命を生きています。先天性弱視という障害を持って生まれました。左眼は0.05で強制不可能、視野は下半分しかありません。右眼は光を認識出来るだけ。でも、私は、弱視だから何かが出来ないと考えたことは、あまりありません。19才の時に父を脳出血で亡くしました。倒れて病院に運ばれた時点では「もう意識は戻らない」と言われたものの、医師たちの努力により意識は回復。しかし、重い精神障害を負っていて、8ヶ月後に脳炎を発症。見逃されて放置され、逝きました。医療ミスであり、家族の不注意であり、父本人の静かな自死でもあったかも知れません。父の死後、私は最初の転換性発作(失立失歩)を経験しました。22才から6年間、ドイツで音楽療法を学び、2008年に帰国しました。ドイツで生活している頃からうつ病の兆候があり、2年間心理療法を受けました。帰国後、症状が徐々に悪化し、様々な療法を試したものの、効果無し。むしろ余計に悪化。2013年から抗うつ剤の服用を開始。幾度もの入院を経て今に至ります。

 留学中、アントロポゾフィー医療を実践しているベルリンの病院で、2回、痔の手術を受けました。帰国後、その傷が原因で、医師が「見たことが無い」というほど酷い痔ろうになり、2011年大手術の後、1年半かけてゴムで筋肉を切りました。今でも後遺症は残っています。でも、その外科医は、私が今までに出会った治療家の中で、一番、私の心と身体を癒してくれた人でした。その手の技は、どんなスピリチュアル・ヒーリングよりも高い精神性を宿していました。演奏の質を高めること以外に、有能な音楽療法士になる道は無い。その医師に出会って、私はこう確信しました。

病気の時の無力感と絶望感を通して、たくさんのことを学びました。何もしないことが、最善の治療であることもある。どんな音楽よりも、静けさが有難い時もある。音楽療法士の大切な役目のひとつは、まさに、静けさを守ることなのだと、知りました。

一方で、音楽が心の中に静けさをつくり出す場合もあります。私が作る曲たちが、そんな音楽であることを願いつつ。

文 2017年執筆、2021年7月改訂
工藤咲良


              絵:「傷」 2017年11月  咲良