「太陽王ルイ14世」③「フロンドの乱」の影響
アンリ4世の突然の死によってルイ13世はわずか9歳で即位したが、ルイ14世の即位はさらに幼くなんと4歳8か月。摂政になったのは母后アンヌ・ドートリッシュ。政治を実際に動かしたのは、宰相マザラン。本名ジュリオ・マッツァリーノ。イタリア人である。ローマ教皇の一介の家臣に過ぎなかったが、教皇特使としてパリに派遣されたときに、ルイ13世の宰相だったリシュリューと出会いその外交手腕を高く評価される。のちにリシュリューはこう書いている。
「マザランの諸国に関する広い知識と、冷静で辛抱強く、そしてペテン師ともうけとれる陰険な用心深さは、国王陛下にとって大変有用なことである。」
マザランは、1639年フランスに帰化し、1641年に枢機卿に任命され、1642年12月4日に死去したリシュリューによって後継者に指名された。リシュリューは「国王の尊厳と王国の強大」を念願として生き続け、その生涯の最期に「わたしには、国王と国家の敵よりほかの敵はなかった」という言葉を残した人物。マザランは、内政、外交いずれの面でもリシュリューの政策(王権の強化とハプスブルク勢力の弱体化)を引き継ぐ。リシュリューの場合と異なっていたのは、摂政である母后との関係が良好だったこと(二人は「秘密の結婚をしているのではないか」とまで噂された)。しかし、マザランはイタリア人、母后アンヌ・ドートリッシュはスペイン人。敵は多い。1618年に始まり、フランスが1635年に参戦した三十年戦争も1648年まで続く。王権強化のために発言力が後退した伝統的貴族、権益を侵害された官職保有者、戦争と重税に苦しむ民衆、各階層の不満は高まる。そして1648年8月、ついにマザランの強権的な政策に対する反乱が勃発する。「フロンドの乱」だ。不満を抱く各階層の動きが重なって、大きな反乱に発展。しかし、各層の運動は、それぞれ利害が異なったため、一致した反王権運動には発展しなかった。マザランは二度まで亡命を余儀なくされたが、優れた政治手腕、外交手腕で最終的には勝利を納めた。
1648年に始まり1653年に終わったフロンドの乱は、ルイ14世が9歳から14歳の時期にあたる。当然、彼の人格や性格、思考や好みに多大な影響を及ぼした。
「フロンドの乱はこの王子の感受性に強い影響を与えたばかりではない。それは彼の精神を形成し、性格を造形したのである。・・・マザランは後に亡命先から帰国するとすぐに権力の座に舞い戻ったが、そのときに知ることになる。この動乱の時代が他のどんな経験にも増して、ルイの知性、理性、記憶、そして意志を発達させ、その仕上げをしたのだということを」
(フランソワ・ブリュシュ『ルイ14世』)
5年間にわたってフランスを無政府状態に陥れたフロンドの乱。乱の勃発時(1648年8月26日~27日「バリケードの日」)、暴徒と化し一部の民衆が9歳のルイ14世の部屋に侵入する事件が起きた。ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたと伝えられる。また翌年1月5日、パリの民衆がルーヴル宮を包囲する中、安全な場所へ避難するためにマザランと母后は9歳のルイ14世を連れてパリを脱出(ルイはベッドからシーツでくるまれ、荷物のように馬車に放り込まれ辛うじて宮殿から脱出して難を逃れたとされる)してサン・ジェルマン・アン・レー宮に向かう。そしてその後もフランス各地を転々とさせられる、5年にわたって。
こうした体験が大きなトラウマとなりルイ14世にパリを捨ててヴェルサイユ遷都を決意させ、財政難の中で莫大な資金を投入してのヴェルサイユ宮殿大造営に至ったのである。まさにフロンドの乱がヴェルサイユ宮殿を誕生させたのだ。
(ルイ14世即位)左から、摂政アンヌ・ドートリッシュ、ルイ14世、宰相マザラン
(少年王ルイ14世)4歳
(マザラン)
(アンリ・テストラン「ルイ14世」ヴェルサイユ宮殿)1648年 ルイ14世9歳
(1653年 宮廷のパリへの帰還)中央やや左で馬に乗るのがルイ14世
(1653頃 ジャン・ノクレ「パリに凱旋するルイ十四世」ヴェルサイユ宮殿)
(ヴェルサイユ宮殿)